安土桃山時代から江戸時代に肥前国(佐賀県)で活躍した刀工です。
武家の生まれで、祖父と父が「沖田畷の戦い」で討死してしまい、
自身も軍役を希望しましたが13歳だった為に叶いませんでした。
これをきっかけに一家は刀工へ転身し、
肥後国(熊本県)で活躍していた「田貫善兵衛」の門人となりました。
基本的な作刀技術を身に付けた後、一門の宗長と共に
山城国(京都府)で活躍していた「埋忠明寿」の門人となりました。
忠吉は作刀技術を、宗長は彫刻技術を学んだと言われています。
忠吉はたった三年という短い期間にも関わらず、
埋忠明寿から秘伝を伝授されるというほどの腕前を持っていたと
いわれています。
1598年に肥前国へ帰国すると、佐賀城下に定住し
佐賀藩主の「鍋島勝茂」のお抱え鍛冶として大いに繁栄しました。
晩年は「武蔵大掾」を受領し、名を「忠広」と改め、
「武蔵大掾藤原忠広」と銘を切っています。
肥前刀の開祖として大きな影響を与え、
国内のみならず、朝鮮や中国でも名を広めました。