鎌倉時代に活躍した刀工である「粟田口吉光」が打った刀です。
当初は「薙刀」でしたが磨上げられ「脇差」になりました。
「骨喰藤四郎」という名は、斬り真似をしただけで
骨身にしみる、あるいは骨まで砕けてしまうという意味合いから
名付けられたと伝えられています。
源頼朝から大友家に拝領され、以後は大友家の重宝とされてきました。
その後、大友氏から足利尊氏への忠誠を証明するために献上され
足利将軍家の重宝としされていました。
そして足利義輝の時代に多賀豊後守に与えられ、
「永禄の変(三好三人衆と松永久秀による襲撃)」で
多賀豊後守がこの刀を使用し応戦しましたが討たれてしまいました。
松永久秀は戦利品として骨喰藤四郎を持ち帰り秘蔵していましたが
大友宗麟がそれを知り「刀を譲って欲しい」と
家臣である毛利兵部少輔を遣わせ、三千両と多くの財宝を献上し
どうにか譲ってもらう事となりました。
刀を持ち帰る道中、船で移動していた毛利兵部少輔の前に
数千万の光が出現し近づいてきました。
命ある限りこの刀は譲らないと怒鳴ると光は消え去りました。
古来、優れた刀は竜宮に住む竜王が欲しがったといわれており
それに遭遇したのでは、と毛利兵部少輔は考えたそうです。
そして229年もの長い年月を経て、
骨喰藤四郎は、ようやく「大友家」に帰還しました。
しかし、1589年に豊臣秀吉に献上せざる負えなくなり
再び大友家から離れてしまうこととなりました。
大坂夏の陣の後に焼け身として大阪城堀で発見され
再び打ちなおされたものが豊国神社所に所蔵されています。