現・京都府出身の江戸時代前期に活躍した日本の装剣金工です。
後藤程乗は後藤四郎兵衛家(後藤本家)7代・後藤顕乗の長男として生まれ、父・顕乗は5代・後藤徳乗の次男として生まれたため、後藤本家を継ぐ立場ではありませんでした。
そのため、別家の後藤理兵衛家を創始しましたが、後藤本家を継いだ兄の栄乗が若くして亡くなり、その嫡男である即乗は後藤本家当主として未熟であったため、顕乗が後藤本家7代を一時的に継ぎました。
このように少し複雑な環境下で生まれ育った後藤程乗は、後藤理兵衛家2代と後藤四郎兵衛家9代を襲名しています。
後藤程乗は後藤本家を継ぐ前に後藤理兵衛家を継いでおり、その時に「理兵衛」を名乗っていました。
後藤本家5代・徳乗の甥であり、後藤程乗の叔父でもある覚乗の勧めで加賀藩の前田家に出仕し、加賀藩の彫金と財務をまかされるほどになり、後年「加賀後藤」と呼ばれる金工群の育成に尽力しました。
そのため、加賀金沢藩主・前田利常より兼六園の地域に屋敷を賜り、44歳の時に正式に「程乗」と名乗るようになります。
ちなみに覚乗は分家である後藤勘兵衛家を相続し、工芸を奨励した加賀金沢藩主・前田利常に招かれ、前田家の装剣用具の製作や金銀財政面の用達を行った人物として知られています。
後藤程乗の父である顕乗と交替で隔年に金沢に滞在して京都と金沢を往復し、「加賀後藤」と呼ばれる流派の基礎を築いた人物です。
後藤程乗は金沢で装剣金工として順調に活躍を見せていましたが、後藤本家8代・即乗が早くに亡くなってしまったため、父・顕乗と同じく、後見人として一時的に後藤本家を継ぎました。
後藤本家は室町幕府第8代将軍・足利義政に仕えた後藤祐乗を祖とし、江戸時代に入ると大判座、分銅座を主宰して特権的職人の地位を占める存在として活躍しています。
そのため、後藤程乗も後藤本家を継いだ時はその役目をきちんと果たし、4代・将軍徳川家綱より、100俵20人扶持を支給されています。
また、装剣金工としての作風は、その人柄同様に穏健で品格溢れているものが多く存在します。