鎌倉時代に大和国で活躍した刀工である包永が打った刀で、
足利義晴から細川藤孝に下賜したものです。
奈良興副寺の僧兵と一騎打ちになった時に
細川藤孝は下賜された刀を使用しましたがどうにも扱いにくく、
80センチの刀を67センチに磨上げさせました。
すると、刃が表は乱れ刃、裏は直刃だった事から
万葉集の「奈良山の児の手柏の両面に かにもかくにもねじけ人の徒」
という歌にかけて「児の手柏包永」と名付けました。
その後は細川藤孝の愛刀として使用され、
細川藤孝死後に弟である細川興元が遺品として継承しました。
すると、以前からこの刀を欲していた徳川家康が
500貫(約3000万円)で召し上げてしまいました。
徳川家康は肌身離さずこの刀を持ち歩き、
息子らからねだられても決して譲らず
愛刀として使用し続けていました。
水戸徳川家に伝承されていましたが
関東大震災の時に焼失してしまい、
もう実際に見る事が出来なくなってしまいました。