安土桃山時代~江戸時代初期に活躍した日本の装剣金工です。
後藤四郎兵衛家(後藤本家)5代目を襲名しており、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉に仕えた事で知られています。
後藤本家の家業は代々、装剣金具の製作を行う事でしたが、父・光乗とともに織田信長より分銅大判役を命ぜられた事により、大判金と金銀を測る天秤の分銅を製作するという功績を残しています。
ちなみに分銅大判役は織田信長が倒されてからも豊臣秀吉から引き続き役を与えられ、私領250石を永代不易に与えられる厚遇を得ています。
このように、家業の装剣金具の製作よりも天下の経済政策に関与するような立場であったため、残された作品は少ないとされていますが、名品に関しては歴代と比べると多く存在しています。
後藤徳乗が生まれた後藤本家は室町幕府第8代将軍・足利義政に仕えた後藤祐乗を祖としている家系です。
後に徳川家にも仕える事になりますが、そこに至るまでには後藤本家存続の危機に直面する出来事がありました。
それは関ヶ原の戦いで石田三成方につき、大坂の陣においても豊臣方についた事により、徳川政権となった時に蟄居な生活を送る事となってしまいます。
しかし、後藤徳乗の弟である長乗は分家して徳川方についていたため、長乗の労によって徳川家康、秀忠に大判座頭人として仕えるようになりました。
こうして、後藤本家は大判座、分銅座を主宰して特権的職人の地位を占める存在として後に大きく繁栄していきます。
後藤徳乗は、美濃彫や白銀工などを管理しながらその典雅な作風で、後藤細工所の基礎を築き上げ、当時京都に新興していた刀工の埋忠明寿家と並ぶ力量を持つほどまでに復興を成し遂げた人物でとして評価されています。
また、三男・顕乗は後藤本家7代目を継承し、四男・琢乗と五男・休乗はそれぞれ別家を創始し、後藤本家と分家は江戸時代が終わるまでの400年間、金工界をリードしていきました。