現・京都府出身の江戸時代初期に活躍した日本の装剣金工です。
後藤四郎兵衛家(後藤本家)10代目を襲名しており、多くの作品を残した事で知られています。
後藤本家伝統の後藤彫以外の作品も多数手掛けており、画面いっぱいに場所を使って図柄を彫る傾向があり、精巧な作と並出来のものの差が大きいのが目につくとも言われています。
後藤廉乗が生まれた後藤本家は、室町時代~江戸時代にかけて御用達の彫金を家職としてきた一門で、足利、織田、豊臣、徳川の各将軍家の御用をつとめ、刀装具などの彫金作品を制作してきました。
そして江戸時代になってからは大判の鋳造と墨判および両替屋の分銅の鋳造を請け負っています。
室町幕府第8代将軍・足利義政に仕えた後藤祐乗を祖とし、5代・徳乗のとき四郎兵衛(しろべえ)と称して以来、当主は通称として四郎兵衛を名乗るようになっているため、後藤廉乗も「四郎兵衛」を名乗っています。
そんな後藤本家8代目をつとめた父・即乗は後藤廉乗が4歳の時にこの世を去ったため、すぐには家督を継ぐ事ができませんでした。
そのため、7代目を襲名した顕乗の長男の程乗が一時的に9代目を襲名し、後藤廉乗は後藤本家当主としての力量を得るまで、9代・程乗のもとで修行に励みました。
こうして20歳の時に家督を相続し、幕府の命令で江戸定詰を命じられると一門を引き連れ、江戸・京橋に住むようになります。
しかし、この頃から京都在住の後藤の分家と江戸の四郎兵衛家との間に次第に対立が生じるようになり、もめごとが絶えませんでした。