江戸出身の江戸時代中期~後期に活躍した装剣金工です。
後藤四郎兵衛家(後藤本家)の13代目を襲名しており、歴代と同様に大判および分銅の役を命じられ確かな貨幣の製造を行いました。
後藤桂乗自身の作品は少なく、むしろ極めを沢山残しており、これは一族郎党の統率に力を注いだためだと考えらえています。
後藤四郎兵衛家12代・後藤寿乗の三男として生まれた後藤桂乗は、名は「光守」と称し、兄であり13代目を襲名していた兄の養子となって14代目を襲名しました。
後藤四郎兵衛家は室町幕府第8代将軍・足利義政に仕えた後藤祐乗を祖とし、5代・徳乗のとき四郎兵衛(しろべえ)と称して以来、当主は通称として四郎兵衛を名乗るようになります。
明治時代まで17代続いた名門で、江戸時代に入ってから判座、分銅座を主宰して特権的職人の地位を占める存在となりました。
そのため、後藤桂乗は「享保大判金」の墨書きも行っています。
後藤家では制作される作品のほとんどが小柄、笄、目貫の3種を同一作者、同一意匠で揃えた三所物(みところもの)で、縁頭や鍔はほとんど制作していません。
5代・徳乗から三所物以外も手掛けるようになり、地金は赤銅を使うことがほとんどで、まれに四分一(銀と鉛の合金)が使われています。
後藤桂乗も手掛けた作品は少ないながらも、後藤家の伝統を守った作品を制作しています。