江戸時代初期に肥後国八代(現・熊本県八代市)で活躍した肥後派の装剣金工です。
肥後派は肥後細川家の庇護のもとに栄えた装剣金工の流派で、その肥後派を代表するのが、林又七、平田彦三、西垣勘四郎、志水仁兵衛をそれぞれの初代とする4つの流派で、志水仁兵衛は志水家の初代として活躍を見せました。
肥後金工は鐔、縁頭(ふちがしら)、目貫など刀装具の金工品の全てを手掛けており、初代・志水甚五は肥後金工の中でも異色とされており、作品は真鍮の据文象嵌を施した豪華なものが多いのが特徴です。
初代・志水甚五は名を一幸といい、通称を仁兵衛といいました。
豊前国の小倉藩の前藩主である細川忠興に従い、叔父の平田彦三とともに肥後国八代へ移住してきました。
平田彦三がこの世を去ると八代袋町の屋敷を譲り受け、厚手の鉄鐔に猛禽や龍などを大胆に据文象嵌した豪快な作品を制作し続けました。
その作品はゴッホやピカソのような独特の意匠で、研究者の間でも話題となっています。
その後、志水甚五は代々当主が襲名すると名乗る名となり、志水家は8代まで続きました。
そのため、2代以降の作は「甚五」あるいは「甚吾」と銘を切っていますが、初代・志水甚五の作で「甚五銘」は今の所、発見されていません。