江戸時代中期に肥後国八代(現・熊本県八代市)で活躍した肥後派の装剣金工です。
肥後派は肥後細川家の庇護のもとに栄えた装剣金工の流派で、その肥後派を代表するのが、林又七、平田彦三、西垣勘四郎、志水仁兵衛をそれぞれの初代とする4つの流派で、志水甚五永次は志水家の3代として活躍を見せました。
3代・志水甚五は名を永義といい、通称を甚五永次といいました。
初代・志水甚五の息子とされていますが3代・志水甚五が生まれた年齢から考えると、初代・志水甚五が71歳の時の子となるため、養子の可能性が高いとされています。
3代・志水甚五は16歳の時に3代・西垣勘四郎の門人として修行に励み、21年間という長い年月をかけて技を習得しました。
西垣家も肥後派の4つの流派の一つであり、白銀細工を得意とした流派で、修行を積むには最適の場所でした。
志水甚五の名を襲名してからは、少なくとも72歳までは「甚五」、晩年は「甚吾」と銘をきっており、「永次」の銘も存在しています。
その中でも「甚吾銘」の鐔は、茎櫃孔の上下あるいは上に責金のための丸い孔を開けたものが多く存在し、3代・志水甚五の作品の特徴とも言えます。