陸奥国(現・福島県)出身の江戸時代末期に活躍した日本の装剣金工です。
田中派の祖とされており、門人には清重、寿量など優秀な門人がおり、多くの門人を輩出しました。
田中清寿は通称を文次郎といい、号は東竜斎、竜法眼、寿叟などがあります。
田中清寿は、はじめ会津正阿弥派の門人となり、彫金技術を学びました。
その後、河野春明の門下に入り師名の一字を許されて「明義」を名乗っていましたが、30歳の時に「清寿」と改名します。
これは田中清寿が特定の師を定めないと考えていたためで、河野春明から独立してからも諸流の工法を採り入れて、「東竜斎風」という彫技を編み出しました。
こうして田中清寿の作品は幕末の江戸で大変な人気となり、評判を呼び、後藤派の祖である後藤一乗、明治天皇の御刀金具の彫刻を命ぜられ、新政府の新貨条例の際は大阪造幣寮に出仕し、新貨幣の原型製作に従事した加納夏雄と合せて幕末の三名工と呼ばれるようになります。
その作風は力強い高彫や鋤出高彫金象嵌などを見る事ができます。