岩田藤七は日本のガラス工芸家です。
実家は日本橋の呉服問屋を経営していました。
幼名は東次郎といいます。
東京美術学校(現・東京藝術大学)で彫金・洋画・彫刻を学び、アールヌーボーに啓発されてガラスの道を志すようになりました。
ガラスといえば実用的な工業製品が主だった時代、独力で色ガラスの西峰を学び、工場を開き、工芸品を作り始め、制作に必要な職人を育てるとともに、様々な色のガラス作りや独創的な成形技術を深く研究しまし「日本の色ガラス工芸」という新たな世界を切り開きました。
また、数々の展覧会等に出品しており、賞を受賞しています。
尚、出品作や本人自ら秀作と思われた作品には、箱書きとして作品の絵を墨で描いています。
日本のガラス工芸の開拓者であるとともに、色ガラスによる装飾壁面「コロラート」を生み出し、ガラスの近代建築への応用という新しい分野を築き、世界のガラス工芸にも先進的な役割を果たし、現在のガラス作家に多大な影響を与えています。
1893年 宮内庁御用達呉服商・初代岩田藤七の長男として生まれる
1900年 父藤七死去。二代目藤七を襲名
1909年 四条派日本画家稲垣雲隣からつけ立てを習う
1911年 白馬会洋画研究所にて岡田三郎助に師事
1912年 東京美術学校(現東京芸術大学)金工科入学
彫金を海野勝、平田重幸などに学び、漆芸は六角紫水に薫陶を受ける
1918年 東京美術学校金工科卒業。西洋画科に再入学
1922年 建畠大夢に師事し、彫刻を学ぶ
第4回帝展「深き空」(彫刻)を初出品
1923年 東京美術学校西洋画科卒業
橘ガラス工場社長今村繁三にガラス製法の手ほどきを受ける。
1925年 商工省第12回工芸展(金工)褒状
長男久利生まれる
1926年 商工省第13回工芸展(金工)3等賞
1927年 葛飾区小菅町に工房を設置
第8回帝展からガラスを出品
1928年 第9回帝展より連続3回特選
以後帝展、文展、日展へ毎年 出品
1929年 帝展無鑑査出品者となる
1931年 岩田硝子製作所を設立
1935年 第1回個展開催
以後毎年 個展開催
1936年 昭和11年 文部省美術展覧会・招待展出品
1937年 第1回新文展審査員、出品作政府買上
1938年 パリ万国工芸展銀賞受賞
1940年 紀元2600年 奉祝美術展出品
1941年 東京府芸術保存審議会委員、東京工芸総合展美術工芸部展審査員
1943年 商工省の重要工芸技術保存資格者として、硝子製造残留工場に指定される
1944年 第10回個展、戦争激化のため以後個展を一時中断
戦時特別文展出品、政府買上
1946年 第2回日展審査員。以後審査員を続ける
1947年 戦後初の個展(第11回)開催
1951年 日展出品作「光りの美」が対象となって25年 度日本芸術院賞受賞
1954年 日本芸術院会員
1957年 高村豊周、山﨑覚太郎、楠部彌弌らと葵洸会創設
1958年 ブリュッセル万博出品、グランプリ
草月会館玄関ホールのシャンデリアをつくる
脳梗塞また胃の手術で闘病生活に入る
1961年 個展第25回の記念展
「岩田ガラスのコロラート展-ガラス工芸の近代建築への発展-」開催
近代建築でのガラス造形の展開をめざす前衛的な試みとして
新作「コロラート」製作
横浜髙島屋食堂大壁面に「コロラート」を製作
1962年 ホテル・オークラの建設時に照明装飾プランに参加
日本伝統工芸展受賞選考委員、以後も続ける
ローマに開館した日本アカデミーに作品が展示される
1963年 日本生命ビル内日生劇場入口正面壁面に「コロラート」を製作
1964年 千葉・扇屋百貨店に「コロラート」製作
1965年 「新しい工芸の茶会展」開催。
ガラスによる茶碗、茶入、水指類を出品、独自の新分野を開く
ロイヤル・ホテル正面入口にガラス・オブジェ「光瀑」を製作
1966年 千代田生命ビル(現目黒区総合庁舎)に「コロラート」を製作
1967年 宝塚カソリック教会にステンド・グラスを製作
第2回日本芸術祭に「神話」が選ばれる
1968年 大回顧展「ガラスとともに40年 ・岩田藤七展」開催
皇居新宮殿にコロラート壁面「大八洲」を製作
1969年 第10回毎日芸術賞受賞
1971年 文化功労者に選ばれる
1972年 日本ガラス工芸協会が設立され、名誉会員となる
1975年 この頃から「貝」をモチーフとした作品を数多く発表
1980年 8月23日87歳で死去
『彩色壺』
『粉文彩耳付水指』
『流花影文花器』
『黄檗三彩茶碗』