並河靖之は明治時代の日本の七宝家です。
川越藩家臣高岡九郎左衛門の三男として京都に生まれました。
数え年11歳の時、青蓮院宮侍臣並河靖全の養嗣子となると同時に、その家業を受け継いで自らが青蓮宮(後の久邇宮朝彦親王)侍臣となりました。
中国七宝(鬼国窯)の模倣をするようになり、七宝作家として志すようになります。
明治期の日本の七宝作品については、世界の七宝作品の歴史の中でも最高の到着点に達したと評価されていましたが、その中でも並河の作品は高名で、小ぶりな作品でも当時のロンドンで働く事務員の年収に匹敵するほどの価格で取引されており、特に欧米の美術館や富豪に買い取られていた為、並河の工房で保存しておいた作品以外については日本国内にはほとんど残っていませんでした。
近年においては清水三年坂美術館が海外から並河の作品を含めた明治期の工芸品を買い戻しているので、日本国内でもその作品を見る事ができます。
また、作品の色彩の豊かさと色彩の透明感は素晴らしいもので、鉱物の分量や配合の割合、焼成する際の時間や温度について気の遠くなるような試行錯誤を重ねて、多くの色彩や色彩のグラデーションを作り上げ、黒色透明釉の発明によりそれまでの七宝作品では存在しなった透明感のある深い黒が出せるようになり、背景色としてよく使われていました。
1845年 川越藩主松平大和守家臣高岡九郎左衛門の三男として生まれる
1855年 青蓮院宮侍臣並河靖全の養嗣子となり、名を政次郎と改める
1858年 元服し、名を主税と改め、諱を靖之と定める
1873年 鬼国窯(中国七宝焼)の模造を試み、12月に食籠を完成
宮家に仕えるかたわら、七宝業を始める
1874年 尾張の桃井英升を招き、七宝の技術指導を受ける
1875年 第4回京都博覧会に七宝花瓶を出品 有功銅賞受賞
1876年 横浜のストロン商会と5年間の契約を結ぶ
フィラデルフィア万国博覧会に出品 銅賞受賞
1877年 第1回内国勧業博覧会に鬼国窯舞楽図花瓶(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)を出品 鳳紋賞牌受賞
1878年 東京で七宝釉薬の改良を指導していたドイツの化学者ワグネルが京都の舎密局に着任
パリ万国博覧会に銀製七宝茶入を出品 銀賞受賞
久邇宮(元青蓮院宮)家従を辞し、七宝製造業に専念する
1881年 第2回内国勧業博覧会に銅器七宝花瓶を出品 有功二等賞受賞
1883年 アムステルダム植民地産物及び一般輸出品万国博覧会に出品 銀賞受賞
1885年 ロンドン万国発明品博覧会に出品 銅賞受賞
ニュールンベルク金工万国博覧会に出品 銀賞 紀年賞受賞
ニューオリンズ万国博覧会に出品、一等金賞受賞
1887年 皇居(明治宮殿)御造営御用品の美術品につき契約を結ぶ
1888年 バルセロナ万国博覧会に出品 銀賞受賞
1889年 日本美術協会会員となる
1890年 京都美術協会発足し、評議員となる
第3回内国勧業博覧会に鳳凰唐草紋七宝花瓶を出品 妙技一等賞受賞
1893年 緑綬褒章を受章する
シカゴ・コロンブス万国博覧会に出品 優等賞(銅牌)受賞
1895年 第4回内国博覧会に七宝四季花鳥壺を出品 妙技一等賞受賞
1896年 帝室技芸員となる
1897年 帝国京都博物館の開館にあたり、新製品の作成を依頼られる
1900年 パリ万国博覧会に四季花鳥図花瓶(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)を出品 金賞受賞
1903年 第5回内国勧業博覧会に金線七宝竹図花瓶を出品 二等賞受賞
1904年 セントルイス万国博覧会に出品 金賞受賞
1906年 賞勲局より勲章製造の特命を受ける。勲章工場を東京下谷上根岸に設ける
1910年 日英博覧会(ロンドン)に出品 名誉賞(金牌)受賞
1918年 山科に恋鯉荘を造る
1922年 エドワード皇太子(後の8世)、並河邸を訪れる
1923年 七宝工房を閉鎖する
1927年 5月24日、83歳にて死去
『黒地四季花鳥図花瓶』
『蝶図瓢形花瓶』
『七宝花蝶文瓶』