神奈川県出身の明治~大正時代に活躍した日本画家です。
古くから伝わるものに固着してしまった日本画を変えるために自ら「日本画の破壊者」と称して、主題、構図、色彩など絵画の全ての面で自由な創意による新しい日本画の改革に生涯をかけて挑んだ事で知られており、大胆で独創的な作品は日本画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家に大きな影響を与えました。
その証拠に代表作「熱海の巻」は重要文化財の指定を受けています。
輸出向け提灯を商いとしていた家に生まれた今村紫紅は、本名を寿三郎といいます。
15歳の頃に山田馬介という画家にターナー風の水彩画を学び、干支に因んで「龍介」の雅号を貰いました。
その後、兄の勧めで兄とともに松本楓湖に師事し、日本画を学びます。
特に兄の厳しい指導のもと、大和絵の粉本の模写に明け暮れ、まだまともに描けない状態で銀座界隈まで写生に行かされたり、走っている馬を写生するため自身も走りながら写生させるなど、その指導方針は並の人間がやる事ではありませんでした。
また、色を強く塗ると叱りつけては描き上がった作品を水で洗い流して描き直しをさせたというエピソードも残されています。
こんな兄の厳しい指導の甲斐あってか、日本美術協会展で初入選を果たす事ができ、この頃から「紫紅」と号すようになりました。
その後、生涯の友となる安田靫彦らの紫紅会に入会する事になりましたが、名称と自分の雅号の文字がかぶっていた事から、会名を「紅児会」と改称する事になりました。
そして、松本楓湖の門下生を中心とする巽画会では歴史人物画の研究を勧め、新日本画開拓のリーダー的存在となり、次々と作品を発表していきます。
そんな中、茨城県五浦の日本美術院研究所を訪れた際、岡倉天心の指導を受ける事になり、岡倉天心に好きな画家を聞かれ「俵屋宗達」と答えた事が岡倉天心に認められるきっかけとなり、また、俵屋宗達の再評価のきっかけともなるなど、今村紫紅の日本画への研鑽は素晴らしいものでした。
また、菱田春草や横山大観らの制作姿勢に大きな刺激を受け、更なる日本画の可能性を見出しました。
原三渓の援助を受ける事になると原邸で毎月、原三渓の収集した日本や中国の古美術鑑賞を行い、明清画や富岡鉄斎の研究を行い、第6回文展に出品した「近江八景」で二等賞を受賞する事になります。
この作品を見ると大和絵の伝統を継ぎながらも南画研究によるやわらかな筆致と、当時日本に紹介された後期印象派的な点描と色彩の対比を融合させた紫紅独自の様式を確立した事が分かります。
また、インドを旅して回り、帰国してからの作品は大胆な構図と華麗な色彩を特色とし、大和絵の伝統に琳派・印象派・南画などの新解釈の手法を加えた作品を展開し、画家として地位を築いていきました。
しかし、画家として期待されていたのですが、酒による肝臓病と脳溢血のため35歳という若さでこの世を去ってしまいました。