日本の陶芸家、日本画家。
愛知県碧海郡棚尾村に生まれる(現・碧南市棚尾地区)。
幼い頃から手先が器用で、"針吉""凧吉"とも呼ばれていた。
明治25(1892)年に棚尾小学校を卒業すると、木綿問屋の尾白商会に奉公に出た。この会社では朝鮮半島で砂金を金塊へ鋳造する仕事などもした。
帰国後美術学校への進学希望を父親に伝えますが許されず、名古屋の服部七宝店に入社。ここでは米国でも有数の美術館であるボストン美術館で東西の美術作品を目にする機会があった。セントルイス万博で仕事をするために明治37(1904)年に渡米した。
米国でみた美術作品に触発されたのか、日本に帰った藤井は服部七宝店を退職し、上京、明治38(1905)年、美術工芸家としてのキャリアが始まった。
明治の終わりから大正時代にかけての藤井は、吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型などの前衛的なグループに参加して当時の気鋭の画家・彫刻家・工芸家と親しく交流。制作でも古い型にとらわれない斬新な作品を生みました。
木を彫り込み、螺鈿や七宝、鉛を用いた『草木図屏風』やアップリケや刺繍を施した『大島風物図屏風』などはこの時代の藤井の代表作といえる。
藤井の全業績の中でも大正時代を中心とした時期に制作された作品は強い魅力を発している。
当時の藤井は家庭婦人向けの工芸の手引書を執筆し、雑誌『工芸時代』の創刊に協力するなど幅広い活動をしていた。
更に官展に工芸部門を加えるための運動を友人たちと行い、この運動は大正12年の帝国美術院への美術工芸部門設置という形で実を結んだ。
昭和に入った頃から軸足は次第に中央から離れていった。また大きな展覧会に作品を出品することも画商に作品を売り込む事もほとんどなかった。
藤井は転居を繰り返し、後半生は郷里での後進指導に重きを置いた。瀬戸の陶芸や小原の和紙工芸の現在の発展の基礎は藤井が築いたと言って良い。藤井は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住んだ。
後半生の藤井の作品は文人画的性格が強まり、平安時代の継紙を現代に蘇らせ、独自の工夫で『継色紙風蓋物』などの制作を多く行った。
昭和39(1964)年、岡崎で亡くなった。享年83歳。
1881年 愛知県碧海郡棚尾村(現碧南市源氏町)に生まれる。
1912年 フュウザン会、国民美術協会に創立会員として加わる。
1919年 高村豊周、岡田三郎助、永原孝太郎らと装飾美術家協会の結成に加わった。
1921年 雑誌『主婦の友』に手芸の手ほどきについて連載を開始。
1929年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の設立時に図案工芸科の教授となる。
1932年 愛知県小原での和紙工芸の指導が始まる。
1953年 1955年に開館する愛知県文化会館美術館の為に自作及び所蔵品作品を亜地検に寄贈。
1964年 愛知県岡崎市で死去。享年83歳。