現在の京都府出身の江戸時代中期に活躍した絵師で、教育者としても優れ多くの門下がおり、四条派の始祖とされています。
呉春は社交を好む粋な都会人で、画の他にも俳諧、書、篆刻、謡曲、横笛、蹴鞠にも優れた才能を見せていました。
京都の裕福な家庭に生まれた呉春は、長男であった事から家業を継ぎ、金座の平役をつとめていました。
大西酔月の門下となり、趣味として画を学び始めましたが、大西酔月が亡くなると与謝蕪村の内弟子となり、俳諧や南画を学びました。
本格的に画家として活動を行うようになると『平安人物誌』の画家の項に名前が載る事となり、高い評価を受けていた事が分かります。
金座をつとめていた頃、嶋原の名妓・雛路を身請けし妻としていましたが、里帰りの途中で事故に遭い亡くなってしまい、続けて父親も亡くした事が精神的に大きな負担となりふさぎ込むようになります。
そのため、蕪村の勧めでパトロンであった蕪村門下の商人・川田田福を頼り転地療養を行っていました。
その地が古名で「呉服(くれは)の里」と呼ばれ、正月(新春)を過ごした事から、画号を「呉春」とし、これまで使用していた「月渓」の名は俳号としては終生用い続けました。
呉春は蕪村風の筆法で力強い画風の人物画や花鳥画を残し、俳画にも優れた作品を多く残していますが、自句を記したものは少なく、蕪村ら先人の句に合わせて画を添えてある事が多いのが特徴です。
その後、天明の大火によって住む場所を追われた呉春は、避難先で円山応挙と同居する事になります。
この時、応挙は「御所や門跡寺院に出入したいなら、漢画を捨てて狩野派や写生画を描かねば駄目だ」と呉春に助言をしたそうで、文人画の味わいを残しつつ写実的な作風へと転換していきました。
また、呉春は応挙に弟子入りをしようとしましたが、応挙は呉春の才能を知っていたため、「親友として共に画を研究し、互いを高め合う仲でありたい」と言い、師弟関係は結びませんでしたが、応挙門人たちも参加した大乗寺障壁画製作事業に参加するなど交友を深めていきました。
円山応挙が亡くなると呉春は京都画壇の中心人物となり、その画派は呉春の住む場所から四条派と呼ばれるようになりました。
呉春は合作が多い絵師でもあり、岸駒と合作した「山水図」は特に有名です。
しかし、晩年は体調が優れず、大作を依頼されても断り続けたそうです。
呉春の生み出す作品は、円山派の写生画が真面目すぎて窮屈な印象を持っているのに対して、平明で都会的な洒脱な要素が加味されている事から円山派から独立した四条派を形成する事ができた理由とされており、文人の頼山陽は「京都の画風は、応挙において一変し、呉春において再変した」と評し、応挙と合わせて円山・四条派と呼称され、現在の京都画壇にも大きな影響を与えるものとなりました。