江戸時代後期に活躍した絵師です。
木挽町家狩野派9代目として活躍し、狩野派最後の名手と言われ数多くの作品を残しました。
狩野養信は模写に尋常ならざる情熱を注いでおり、現在、東京国立博物館に保管されているものだけでも、絵巻150巻、名画500点以上にも及んでいます。
また、原本の剥落や虫損まで忠実に写し取り、すでに模本から模写済みの作品でも原本やより良い模本に巡り会うと写し直しを行っていました。
更には徳川将軍家の蔵からはもちろん、松平定信の白河文庫、住吉家をはじめとする諸家から原本や模本を借りては写し、京都の寺の出開帳があれば写しに出向いています。
そして公務で江戸を離れられない自分の代わりに、京都・奈良に弟子を派遣して写させ、ついにはどこの寺からでも宝物を取り寄せられるように、寺社奉行から許可まで取り付けるなど、ありとあらゆる手法を使って模写を続けました。
伊川院栄信の長男として江戸で生まれた狩野養信は、本名を養信(たけのぶ)といい、15歳で初めて江戸城に出仕しました。
ちなみに出仕する前日から、亡くなる前日までの36年間にもわたる『公用日記』を残しており、奥絵師の日常や仕事の詳細を伝える貴重な資料として現在は大切に保管されています。
将軍・徳川家慶の長男・竹千代が生まれると、「たけ」の音が同じでは失礼であるとして「おさのぶ」に読み改めましたが竹千代が亡くなり、「玉樹院」と呼ばれるようになったため、それまでの号・玉川を「晴川(せいせい)」としました。
父親が亡くなり、家督を継ぐと江戸城西の丸御殿や本丸御殿の障壁画再建の総指揮をとるなど活躍を見せましたが日々の生活が忙しくなり、もともと病弱だったため、2年後にはこの世を去ってしまいました。