江戸出身の江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、生涯で3万点以上の作品を残した化政文化を代表する一人として知られています。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家で、「葛飾北斎」の名は号で、葛飾北斎も入れて30回も改号しています。
また、引っ越し回数も93回と多く、一日に3回引っ越したという逸話が残されています。
これは部屋が汚れたり、散らかったりすると掃除や整理整頓をするよりも引っ越してしまった方が早いと考えたからで、最終的には自分が以前に住んでいた家が引っ越した時と変わらず散らかったままだった事がきっかけで引っ越す事を止めたと言われています。
貧しい百姓の家に生まれた葛飾北斎は本名を川村鉄蔵といいます。
幕府御用達の鏡磨師・中島伊勢の養子となりましたが、のちに実子に家督を譲り、家を出ました。
貸本屋の丁稚や木版彫刻師の従弟となるなど苦労を重ねながらも貸本の絵に関心を持ち、画家を志すようになります。
浮世絵師・勝川春章の門下となり、狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけていましたが、隠れて他の者に師事していた事などが理由で勝川派を破門されてしまいました。
こうして葛飾北斎は若い頃から意欲的に制作活動を行っており、版画のほかにも肉筆浮世絵などに傑作を残しています。
また、挿絵画家として活躍していましたが、作者の提示した下絵通りに絵を描く事が少なく、作者と衝突する事もしばしばありました。
葛飾北斎の画工料は通常の倍を貰っていたにもかかわらず、金銭に無頓着だったせいで画工料が届いても包みを開ける事はなく、米屋や薪屋が請求に来るとその包みごと渡していたため、生涯貧しい生活を送っています。
このように貧しい生活を送っていても金や権力を振りかざす者に対して画を依頼されても簡単に描く事はなく、気に入らない事があればどんな者でもきっぱり断っていました。
画家としての信念だけは貫き通した葛飾北斎はありとあらゆるものを描き尽そうと晩年には銅版画やガラス絵の研究に打ち込みます。
油彩画にも強い関心を持っていましたが、長い生涯において油彩画を手掛ける事は叶いませんでした。
葛飾北斎はフィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派の芸術家をはじめ、工芸家や音楽家にも影響を与えており、近年行われたアメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一のランクインを果たし、86位という快挙を成し遂げています。