江戸時代に活躍した浮世絵師です。
生年、出生地、出身地などは詳しく分かっていませんが、初作は北川豊章の落款で描いた中村座富本正本『四十八手恋所訳』の表紙辺りであろうと言われています。
美人画絵師として世界で知られており、葛飾北斎と並んで評価され、春画の二大巨頭とされています。
喜多川歌麿が美人画の大家として評価されているのは、これまでの美人画の構図は全身を描いたものが主でしたが、女性の様々な仕草や表情が見てとれるよう、顔を中心とした上半身を描き、女性の内面や艶やかさを表現し、繊細で優麗な描線美人画の可能性を広げた事が理由の一つに挙げられます。
そんな喜多川歌麿の師匠は妖怪画を多く描いた鳥山石燕で、画家として活動を始めるようになった当初は、勝川春章風の役者絵を手掛けていました。
その後、北尾重政風、鳥居清長風の美人画を描くようになり、版元・蔦谷重三郎に見出されてからは黄表紙の挿絵や錦絵を手がけるようになり、遊女、花魁、茶屋の娘など無名の女性ばかりを題材に美人画を発表するようになります。
一方で狂歌絵本『百千鳥』『画本虫ゑらみ』『汐干のつと』など植物、虫類、鳥類、魚貝類を題材にした華麗で精緻な作品も描いており、喜多川歌麿の名は世間でも知らない人がいないほど有名なものとなりました。
しかし、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵『太閤五妻洛東遊観之図』を描いた事が喜多川歌麿の運命を大きく変えてしまいます。
当時、豊臣秀吉を題材とした芝居や浮世絵を扱う事は禁止されており、『太閤五妻洛東遊観之図』は北の政所や淀殿とその他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿が描かれたもので、その秀吉の姿が当代の将軍・徳川家斉を揶揄する意図があったと見なされ、幕府に捕縛され処分を受ける事になりました。
それでも人気の衰えなかった喜多川歌麿は解放されてからも絵の注文が殺到しますが、この時の心労と重なり、過労によってこの世を去ったとされています。