1828年 生まれる
1843年 狩野松隣藤原延信を名乗り、号を皐隣とする
1846年 江戸木挽町の狩野勝川院雅信に入門する
1847年 絵所の絵合せで作品の「蘇武」が優勝となる
00000年師・雅信の一字をもらい狩野勝海雅道を名乗る
1850年 絵所の塾頭となる
1855年 生母の病床を見舞うため帰郷する
1857年 松本洞庵の媒酌により安岡村の医師・田原俊貞の長女よしと結婚する
1860年 江戸城本丸再建のため勝川院雅信に呼ばれ江戸に上り、大広間天井画を担当する
1864年 馬関海峡の測量に従事する
1865年 吉田の倉田家から順太郎を養子に迎える
1867年 父・晴皐が亡くなる
1871年 廃藩置県により絵師としての職を失う
1873年 この頃、しきりに南画風の作品を描き、翠庵と号した
1877年 藤島常興を頼って上京する
1879年 神田の精工社で陶器、漆器の下絵を描く
00000年島津家に勤めるようになる
1881年 藤島常興の紹介で下村観山に入門する
1882年 狩野友信の紹介でフェノロサ宅を訪問する
1883年 年末、フェノロサに雇われる
1884年 第2回内国絵画共進会に「桜下勇駒」「雪山暮渓図」「群鷲図」を出品し、文部省御用掛となる
1885年 第1回鑑画会大会に「伏龍羅漢図」「群鷲図」を出品する
1886年 文部省の図画取調掛委員に就任する
1887年 妻・よしが亡くなる
1888年 肺炎のため61歳で逝去
『悲母観音図』
『仁王捉鬼図』
『八臂弁財天図』