栃木県出身の明治~昭和時代に活躍した日本の洋画家、日本画家です。
「洋画」「日本画」の枠にとらわれず、自分の内面を自由に表現するために描きたいモチーフに合わせて素材を選び創作していた事で知られ、洋画や日本画を超えた絵画を構築したと評価されています。
日光の二荒山神社の神官であった小杉富三郎の息子として生まれた小杉放庵は、日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子として学んでいましたが、五百城文哉に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入りました。
しかし、馴染む事ができずおまけに病気を患い帰郷します。
病気が治ると今度はきちんと許可を得て上京し、小山正太郎の不同舎に入門し、その後、太平洋画会に入会し、「未醒」の号で活躍するようになりました。
国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵や漫画を描き、日露戦争では『近事画報』の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画やユーモラスな漫画的な絵などで雑誌の人気に大きく貢献しました。
その一方で美術雑誌『平旦』を石井柏亭、鹿子木孟郎らと創刊しています。
文展で活躍するようになった初期の頃の作品は東洋的ロマン主義の作風が多く見られ、未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れたものなど様々な手法で作品を展開していきました。
画境を広げるためにフランス留学をした際は、池大雅の「十便図」を見たことがきっかけで日本画にも傾倒していき墨絵を描くようになります。
帰国してからは再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰し、二科会にも籍を置いていました。
しかし、考え方の違いから両会を脱退し、森田恒友、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎らとともに春陽会を創立しました。
この時に号を「放庵」と改め、理由や時期は定かになっていませんが、後に「放菴」と更に改めます。
こうして、多くの作品を残した小杉放庵は、第二次世界大戦中に疎開のため新潟県赤倉に住居を移していましたが、東京の家が空襲で失われたため戦後もそのまま暮らし、新文人画ともいうべき独自の水墨画を描き続けました。
また、テニス・野球・空手など趣味が多彩であり、『ポプラ倶楽部』という芸術家の社交団体を主催してテニスを多く行い、テニスプレーヤーとして、東日トーナメント(現・毎日テニス選手権)ベテラン男子の部において、針重敬喜とのダブルスで3回の優勝を記録しています。