明治時代の俳人、歌人。
1867年、伊予松山藩士の長男として生まれる。本名は常規(つねのり)。
少年時代から漢学漢詩を学んだ。1880年松山中学に入学したが、3年後中退し、上京。東京大学予備門に合格し、そこで終生の友・夏目漱石と出会う。88年に喀血してから、「鳴いて血を吐くホトトギス」という句を作り、「子規」(ホトトギスの異名)と号す。
1890年に東京帝国大学哲学科に入学(後に国文科に転科)したが、落第したため退学し、日本新聞に入社。新聞に俳論歌論を掲載していく。95年に日清戦争の従軍記者として旅順に行くが、帰途船中で喀血、以後永い闘病生活に入る。
1897年、松山で俳誌「ホトトギス」の編集・発行を引き受け、本格的に短歌の創作が始まる。写生の俳句を実践、後進の指導に力を注ぐ。また当時主流となっていた「古今集」の技巧的歌壇の傾向を批判し、「万葉集」のような写実主義を高く評価した「歌よみに与ふる書」を発表し、和歌革新運動にも取り組んだ。99年には子規庵歌会「根岸短歌会」を設け、これに伊藤左千夫や長塚節らが加わり、彼らは後にアララギ派として子規の写生の説を展開していった。
1902年9月18日、「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」などヘチマの句三句を辞世句として、34歳の若さで永眠した。
1867年 伊予松山(愛媛県)藩士の長男として生まれる。
1883年 松山中学中退。上京。
1889年 喀血。初めて「子規」と号す。
1890年 東京帝国大学哲学科に入学(後に国文学科に転科)。新聞「日本」に「懶祭書屋俳
話」(だつさいしょおくはいわ)を連載。
1892年 退学。日本新聞社に入社。
1895年 日清戦争の記者として従軍。帰路に喀血。
1897年 「ホトトギス」創刊。
1898年 「歌よみに与ふる書」を発表。
1899年 「根岸短歌会」を結成。
1901年 病床記録である「仰臥漫録」「墨汁一滴」を発表。
1902年 逝去。享年34歳。
『俳人蕪村』
『俳諧大要』
『春夏秋冬』
『歌よみに与ふる書』
『仰臥漫録』
『墨汁一滴』
『病牀六尺』