兵庫県出身の大正~昭和時代に活躍した日本画家です。
大和絵の大家として活躍した松岡映丘は、日本古来の絵画である大和絵が狩野派の出現により影をひそめていたものを表舞台へと引き上げた人物として知られています。
生涯を通じて大和絵を研究し、大和絵を描くにあたって決められた事を守りながらも、現在に通用する大和絵の開発に尽力し、古さを感じさせない大和絵を完成させました。
松岡映丘の生まれた松岡家は医師であり儒学者でもあった父を筆頭に、三男は万葉研究で知られた歌人・井上通泰、六男は民俗学の大家・柳田國男、七男は『日本古語大辞典』を著した言語学者・松岡静雄という文人家系で、皆、日本古来のものの研究に長けていました。
そういった環境下で育った松岡映丘も歴史画に興味を示し、中でも武者絵を好み日本画家を志すようになります。
長兄に引き取られ、茨城県に引っ越した松岡映丘は狩野派の橋本雅邦に学んでいましたが、鎧を描く事が好きだったため自分には合わず半年ほどで通うのを止めてしまいました。
次に兄の友人・田山花袋の紹介で住吉派の山名貫義に入門し本格的に大和絵の歴史や技法、有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事など)の研究に没頭していきます。
この時、すでに大和絵の高い実力を持っていた松岡映丘は東京美術学校に入学し、川端玉章、寺崎広業らに指導を受け、首席で卒業します。
在学中には小堀鞆音、梶田半古、吉川霊華らの歴史風俗画会に参加しており、一貫して歴史画の制作にあたっていました。
神奈川女子師範学校の教諭を務め、東京美術学校教授であった小堀鞆音の抜擢で東京美術学校助教授に就任した松岡映丘は後進の育成にも力を注ぐようになり、その一方で文展に出品を重ね初入選となると官展を舞台に活躍を見せるようになります。
金鈴社の結成に参加し、自らも新興大和絵会を創立して大正~昭和にかけて大和絵の復興運動に力を入れていましたが、56歳という若さでこの世を去ってしまいました。