京都府出身の江戸時代末期から明治時代初期に活躍した日本画家です。
幕末の京都を代表する絵師の一人で、同じ四条派の横山清暉、岸派の岸連山、円山派の中島来章と共に幕末の「平安四名家」と称された人物として知られています。
伝統的な四条派の技法を受け継ぎながらも、西洋の画風も積極的に取り入れており、掛軸のように縦長の画面よりも横長の画面にその特色を見る事ができます。
また、技巧派肌の画家としても知られ、風景画を中心に花鳥画、山水画など画域が広く、傍観的できびきびとした画風を心掛けており、その背景には人々の目を楽しませる事に重きを置いて制作を行っていたからでした。
塩川文麟は京都の安井門跡に仕える者の子として生まれ、幼名は隼人、字は子温もしくは士温といいました。
号は初めに雲章、後に文麟と名乗るようになり、別号として可竹斎、泉声答斎、木仏老人などがあり、通称は図書(ずしょ)といいました。
13歳の頃、両親を亡くした塩川文麟は安井門跡の侍臣となりましたが、絵が好きであったため門主が絵師・原在中に絵を学ぶのを見ながら自らも絵に励むようになりました。
その実力が認められ、岡本豊彦の門に入る事が許されると後に安井門跡の御抱絵師となる実力を身につけます。
それは呉春が文麟の画をみて激賞したというエピソードが残されている事からも塩川文麟の実力が高かった事を知る事ができます。
こうして画家の親睦団体である如雲社を主宰し、京都画壇における絶対的指導者となった塩川文麟は、教育者としても優れた才能を発揮しており、幸野楳嶺など優秀な門下を輩出し、近代京都画壇の育成に貢献した人物としてその名を挙げる事ができます。