薩摩藩(現・鹿児島県)出身の江戸時代末期~明治時代に活躍した日本の政治家です。
大久保利通、木戸孝允と並び「維新の三傑」と称され、維新の十傑の一人として知られています。
江戸無血開城や廃藩置県など国家建設のために指導力を発揮していましたが、西南戦争の首領となり、新政府軍に敗れた事で自決し、その生涯を終わらせています。
一時は逆賊とされていたましたが、明治天皇の特旨により賊名を解かれ、正三位を追贈されています。
薩摩の下級藩士の家の長男として生まれた西郷隆盛は少年時代にケンカで右ひじを負傷し、刀を振る事ができなくなってしまったため、武術をあきらめ学問に打ち込むようになりました。
16歳の時には郡方書役助という農政をつかさどる役所の事務官の補助を担う役目に任命され、迫田太次右衛門利済という人物と知り合い、農政に関する考え方を一から学びました。
その才能が島津家28代当主・島津斉彬の目にとまり、中御小姓・定御供・江戸詰に命ぜられ、斉彬の参勤交代に付き従い、薩摩から江戸薩摩藩邸に勤務することとなった西郷隆盛は庭方役となりました。
斉彬も西郷隆盛の才能に期待し、日本の現在の政治情勢や諸外国の状況と事情、そして日本の政治的課題など詳しく教育し、明治維新で活躍する西郷隆盛へと一歩を踏み出しました。
その頃、江戸では彦根藩主であった井伊直弼が大老に就任し、強大な権力を手中におさめた事で、強引で横暴な政治手法を行うようになっていました。
それを見かねた斉彬はクーデターを計画し、西郷隆盛も斉彬の命を受け、その前準備のために京都に先発し、朝廷方面の下工作などを手掛けていました。
しかし、斉彬は病魔に命を奪われてしまい、この世を去ってしまいました。
斉彬の死は西郷隆盛にとってはあまりにも大きなショックを与え、切腹を図ろうとしましたが、京都清水寺成就院の住職であった僧・月照にとめられ、斉彬の遺志を継ぐことを決意します。
その後、安政の大獄によって月照は狙われる身となってしまいました。
西郷隆盛は薩摩藩のために努力してくれた月照を藩内に匿う事を願い出ますが、斉彬が亡くなってからの薩摩藩の体制は旧体制に変わりつつあり、幕府に睨まれる事を恐れた薩摩藩は月照を追放するように西郷隆盛に命じました。
しかし、義理がたい西郷隆盛は月照を追放する事はできず、二人は入水自殺を決行しました。
冬の冷たい海に身を投じたにも関わらず、西郷隆盛だけが奇跡的に生き残り、安政の大獄によって西郷隆盛にも捕縛命令が出されていたため、薩摩藩は奄美大島行きを命じ、幕府の目から逃れさせるための処置をとりました。
一方、江戸では井伊直弼が水戸藩藩士を中心とした集団に襲われる桜田門外の変が起こり、奄美大島にいた西郷隆盛は呼び戻されます。
その時に藩主となっていた忠義は実父である久光を藩主と同等の待遇を受けることが出来る上通りという身分にし、久光は斉彬が考案し、結局は成し遂げることが出来なかった率兵上京計画を実現させようとしていました。
その事を知った西郷隆盛は反対しますが大久保利通の説得により、率兵上京計画に力を貸す事にしました。
しかし、率兵上京計画は西郷隆盛の考えた通り、良い方向へは向いませんでした。
薩摩藩内の急進派藩士らをなだめるために久光の命を背いた西郷隆盛は久光の逆鱗に触れ、徳之島への遠島(罪としての島流し)となり、最終的には沖永良部島への遠島替えを命令されてしまいました。
西郷隆盛が島流しになっている最中、薩摩藩は藩存続の危機に直面しており、西郷隆盛は赦免され、再び政治の世界に戻ってきます。
禁門の変などを経て、勝海舟と出会った西郷隆盛は長州藩に対して強硬策をとるのを止め緩和策で臨む事にし、土佐藩浪士の坂本龍馬らの仲介によって薩長同盟を締結しました。
こうして、大政奉還、王政復古などを経て江戸城の無血開城に成功し、新政府の改革に尽力していきました。
鹿児島に戻った西郷隆盛は私学校を設立して後進の育成指導につとめていましたが、明治政府のしかけた罠にはまってしまった一部の過激な私学校生徒が陸軍火薬庫を襲撃した事をきっかけに西南戦争が起こります。
火薬庫を襲った若者らを捕え、政府に差し出すという非情な事はできなかった西郷隆盛は東京へ進軍し、最終的には宮崎日向北方の長井村で軍を解散し、別府晋介に頼み、その人生に終止符を打ちました。