江戸中期の南画
家。
名は真淵,字は百川。蓬州,八僊(仙)堂などと号した。
通称
土佐屋平八郎。
八僊堂と称する名古屋の薬種商の家に生まれたとも同家に婿養子として入ったともいわれる。
はじめ俳句を志して各務支考に師事し、松角、次いで昇角と号した。
1726年には自身で挿絵を入れた撰集『本朝八僊集』を刊行したが、こののち、師の支考との間に亀裂を生じている。
32歳のころから京都を拠点として北陸や長崎に遊び、48歳ごろからは絵を職業とする生活に入り、元文年間(1736~41)には法橋位を得るに至った。
絵は当時舶載の中国画や画譜類を学びながら習得していったらしいが、その作風は「紅白梅図屏風」、「春秋江山図屏風」のような元明の画に倣ったものや、代表作である奈良多武峯の慈門院(陶原家)障壁画群のような南宗画と北宗画を折衷したようなものから俳画や和画などまで様々なスタイルをみせている。
画俳両道に進むものとして与謝蕪村に影響を与え、南画の先駆者のひとりとされる。
また、中国の書に自らの見聞を加えた中国画家人名事典『元明画人考』(1751年)を刊行している。
服部南郭、祇園南海、柳沢曦淇園とともに日本南画の祖であり、日本で初めて本格的な中国南宗画様式による山水画を描いた画家とされる。