長野県出身の明治時代に活躍した日本画家です。
美術教育者としての一面も持っており、下村観山、横山大観、菱田春草と並び橋本雅邦門下の四天王の一人に挙げられています。
しかし、西郷孤月の放蕩さが次第に周りの人間を遠ざけていき、画家としてはあまり有名なものにはなりませんでした。
旧松本藩士・西郷績の長男として生まれた西郷孤月は、本名は規(めぐる)といいます。
東京英語学校で語学を学んでおり、これは明治時代の風潮の一つで語学を身に付けておけば何とか生計が立つと考えられていたためでした。
その後、絵を習いはじめ、本格的に学ぶために狩野友信に師事して日本画修行を開始し、東京美術学校の第一期生として入学します。
卒業制作の『俊寛鬼界ヶ島ニ決別ノ図』は宮内庁買い上げとなるなど、早くから日本画家としての才能を見せた西郷孤月は、橋本雅邦に見出され、東京美術学校の研究科へと進みます。
この頃、岡倉天心の推薦で近衛師団に従軍し、日清戦争の模様を写して帰国しています。
こうして東京美術学校研究科を終了すると助教授として迎えられ、橋本雅邦門下四天王の中でも最も将来が嘱望されていた西郷孤月は橋本雅邦の娘と結婚する事になりました。
しかし、西郷孤月はある酒の席で橋本雅邦と口論となった事をきっかけに制作活動を行うよりも酒と遊蕩に明け暮れるようになり、それが要因で離婚となり、中央画壇から姿を消すように各地を放浪するようになりました。
一方、西郷孤月と同郷で橋本雅邦門下であった菱田春草は、日本画家としては誰もが羨むような人生を歩んでいながら、西郷孤月の身を案じていたそうです。
そんな二人が偶然にも再会する事があり、西郷孤月を日本橋倶楽部の展覧会に参加させましたが、その才能は昔の面影もなく日本画壇に戻る事はありませんでした。
しかし、何かが西郷孤月の画家としての気持ちを動かした事で新境地を求めて台湾へ渡って『台湾風景』を描きましたがこれからという時に病気となり、この世を去ってしまいました。