戦国時代~安土桃山時代にかけて活躍した茶人で、竹の花入れや楽茶碗などを作り、無駄を徹底的に排除した「侘び茶」という現在の茶道の精神の基本を築き上げた人物として高く評価されています。
和泉国・堺(現・大阪)の商家の家に生まれた千利休は本名を田中与四郎といいました。
父の跡を継ぐ身であったため、品位や教養を身に付けるために16歳で茶道を学ぶため、当時の茶の湯の第一人者であった武野紹鴎の門人となりました。
武野紹鴎は茶会の儀式的な形よりも茶と向き合う者の精神を重視しており、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器を茶会に用いた茶会の簡素化につとめた人物でした。
千利休はその教えを更に進め侘びの対象を茶道具だけではなく、茶室の構造やお点前の作法など茶会全体の様式まで広げていきました。
織田信長が茶の湯に興味を示すようになると信長の茶頭として津田宗及、今井宗久とともに取り立てられ、信長主宰の茶会を京都で開くなど活躍を見せました。
この時、まだ「利休」とは名乗っておらず「宗易」と名乗っていました。
信長が亡くなった後、天下は豊臣秀吉が握る事になり、秀吉は信長以上に茶の湯に熱心でした。
秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を取り仕切った事で、天皇から「利休」の号を賜り、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡る事になりました。
こうして秀吉の絶大な信頼を得た千利休は政(まつりごと)にも助言するようになり、秀吉が九州を平定し、実質的に天下統一を果たした事で行われた史上最大の茶会「北野大茶湯」の総合演出を行うなど茶人として大きな活躍を見せました。
しかし、秀吉が豪華絢爛な茶会を好んだのに対して、千利休は侘びの精神を大切にした茶会を好んでいた事から両者の意見は食い違っていくようになります。
小さないざこざが積もりに積もってついには秀吉から「京都から出て堺の自宅で謹慎せよ」という命が下りました。
これには諸説ありますが、一番大きな原因であったとされるのが、千利休が参禅している京都大徳寺の山門を千利休が私費で修復した際に門の上に木像の利休像が置かれました。
その結果、秀吉がこの門をくぐる際に千利休の足の下を通る事となり、それを知った秀吉の逆鱗に触れたとされています。
しかし、この利休像は千利休が頼んで設置されたものではなく、千利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に設置したものでした。
秀吉は千利休に死罪までは企図していなかったようですが、千利休にはこれまでの秀吉のやり方に対して不満を持っており、一切の弁明をせず、堺の自宅へ戻ってしまった事が原因で切腹を命ぜられたとされています。
千利休は切腹命令を受けてもいたって冷静で、千利休の首を持って帰る事が任務だった使者に対して茶を点てた後、何も言わずに切腹し、この世を去りました。