三河国(現・愛知県)出身の戦国時代~江戸時代初期に活躍した日本の武将で、江戸幕府の初代征夷大将軍をつとめた事は有名です。
今川義元とともに「海道(東海道)一の弓取り」と異名を持っており、剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していたと伝えられています。
徳川家康は筆豆で、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認されており、駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っています。
また、趣味も多く、鷹狩、香道、薬づくりは広く知られており、特に生薬の知識は専門家も驚くほどで、自ら漢方を調合して日常的に服用していたそうで、それが75歳という長生きの秘訣ではないかと言われています。
そんな徳川家康ですが、岡崎城主・松平広忠の子として生まれ、幼名は竹千代と言いました。
松平家は弱小な地方豪族で、徳川家康の祖父・松平清康の代で中興しましたが、清康が家臣に暗殺されてしまいます。
その跡目を奪おうとした一門衆により清康の嫡男で徳川家康の父でもある広忠が命を狙われ、伊勢に逃れた事で衰退していきました。
その後、有力な守護大名である今川家に誠意を示すために徳川家康を人質として差し出す事になりましたが、その道中に同盟者であった戸田康光に裏切られ、徳川家康は今川家と対立する織田家の元へと送られ、織田家の人質となってしまいます。
その後、織田家で数年過ごしますが、織田信長の兄である織田信広の代わりに今川家へと人質として送られる事になりました。
この時に竹千代と名乗っていた徳川家康は元服して名を次郎三郎元信と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康と名を改めました。
そんな徳川家康の運命を変えたのが桶狭間の戦いでした。
桶狭間の戦いは大軍を率いて京都を目指した今川義元が織田信長の急襲によって討たれた戦いで、主を失った今川家は大混乱となり、その隙に徳川家康は三河の岡崎城に帰還し、今川家から独立を果たします。
その後、織田信長と同盟を結び、名を松平家康とし、後に徳川家康に改めました。
徳川家康の活躍は織田信長の近畿地方の制圧の大きな力となり、織田家の勢力は大きくなっていきました。
しかし、それを許さなかったのが武田信玄で、京都への上洛を開始し、織田・徳川両家と対立する事になりました。
そんな武田信玄は徳川家には目もくれず、京都へと進軍していき、それに腹を立てた徳川家康は、勇敢にも武田信玄に向っていきましたが、武田信玄の圧倒的な采配に徳川家康は大敗してしまいます。
これは後に「三方ヶ原の戦い」と呼ばれ、徳川家康は自分の行為を恥じてその姿を絵に描かせ後の教訓としてそれを飾ったと言われています。
結局、武田信玄は上洛途中で病気によりこの世を去っており、それに乗じて織田・徳川両家で武田軍を制圧し、武田の領土を手に入れる事になります。
そんな中、織田信長が明智光秀によって討たれるという本能寺の変が起こり、その首謀者である明智光秀を討った豊臣秀吉が織田家の実権を握るようになりました。
その事を快く思わなかった信長の次男・織田信雄が後継者として名乗り出た事で、徳川家康は信雄側につき、秀吉と対立するようになります。
小牧・長久手の戦いで3倍以上の兵力を持つ豊臣軍を徳川軍は破ったのですが、信雄が勝手に秀吉と講和してしまったため、徳川家康も秀吉の臣下となる事になりました。
こうして秀吉が天下を納めている間、徳川家康は忠実に仕えていましたが、秀吉が亡くなると態度を一変、豊臣政権に反発するようになります。
これは、秀吉の重臣であった石田三成と徳川家康が不仲だった事から始まり、三成を良く思合わない武将たちが徳川家康のもとへ集まり、やがて天下分け目の戦いと呼ばれた関ヶ原の戦いへと発展していきます。
関ヶ原の戦いで見事勝利した徳川家康は諸国大名のトップとなり、征夷大将軍として江戸に幕府を開きました。
しかし、徳川家をいつまで経っても天下人として認めない豊臣家の実権を握っていた淀殿に対して徳川家康は我慢の限界を迎えていました。
こうして徳川家康は豊臣家に方広寺の再建を勧め、豊臣家から贈られた梵鐘の銘文中にいくつか不適切な文があるとして豊臣家を滅ぼすきっかけとします。
その中でも有名なのが「国家安康」の文字が「家康の名を分断して呪詛する言葉」であるというものです。
こうして豊臣家が滅ぼされ、戦国時代は終わりを告げる事となり、天下泰平の世となりました。
徳川家康はすでに将軍としては退いていましたが大御所として実権を握っていたため、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定し、徳川家の日本全域の支配が始まりました。
そして翌年には朝廷から太政大臣に任命されましたが、胃がんと思われる病気を抱えていたため、その病状が悪化し、この世を去ってしまいました。