江戸に生まれた江戸時代後期に活躍した日本画家・絵師です。
古画の模写と写生を基礎にし、諸派を折衷し南北合体の画風を目指した事で知られており、画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及び画様の幅も広く「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立しました。
谷文晁は円山応挙や狩野探幽と並ぶほどの人気を誇っていましたが、多岐に渡る画風は捉えどころがなく、次第に知名度が落ちていきましたが、近年ではその豊富な画風が見直され、人気の出てきた画家でもあります。
また、後進の指導にもあっていた事は有名で、画塾・写山櫻を開いて多くの弟子がおり、その中でも渡辺崋山、椿椿山、立原杏所など優れた南画家を輩出しています。
祖父、父親ともに田安家家臣となり活躍した人物で、文雅の家系に育った谷文晁は、名は正安といい、はじめ号は文朝、師陵、後に文晁とし字も兼ねていました。
別号には写山楼、画学斎、無二、一恕などがあり、法眼位に叙されてからは文阿弥と号しました。
幼い頃から和歌や漢詩、狂歌などもよくした谷文晁ですが、26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世しました。
そして30歳の時に松平定信に認められ、その近習となり松平定信が隠居するまで松平定信付として仕えました。
そんな谷文晁は12歳の頃に父親の友人で狩野派の絵師であった加藤文麗に学び、18歳になると渡辺玄対に師事しました。
加藤文麗が亡くなると北山寒巌のもとで北宋画を学び、鈴木芙蓉にも学びました。
その後も狩野光定から狩野派を学び、大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画も学び、西洋画の遠近法・陰影法を取り入れた「公余探勝図巻」を描いています。
長崎への旅行では大坂の木村兼葭堂に立ち寄り、釧雲泉より正式な南画の指南を受け、長崎に着いてからは張秋谷に画法を習い一月余り滞在していたそうです。
自他共に認める旅好きだった谷文晁は30歳になるまでに日本全国を盛んに旅して周っており、旅先でスケッチした山々は後に「日本名山図譜」として刊行されました。
その中でも富士山をもっとも好んでおり、富士峰図、芙蓉図などの名品を数多く残しています。
そして、その画力が認められ、江戸時代の古宝物図録集「集古十種(しゅうこじっしゅ)」の挿絵も担当するなどの活躍も見せています。
また、パトロンであった老中・松平定信をはじめ、文人・木村蒹葭堂、絵師・酒井抱一、狂歌師・大田南畝、戯作者・山東京伝といった当代の一流文化人との交流も深く、その人脈の広さは当時の画壇で際立つものだったといわれています。