豊後(現・大分県)出身の幕末~明治時代にかけて活躍した日本画家で、日本最後期の文人画家として知られています。
京都府画学校の設立に参画し、初代校長をつとめ、南宗画学校を開くなど南画壇の向上に尽力した人物としても知られています。
田能村直入は庄屋の家に生まれ、本姓を三宮、幼名を松太(のち伝太)といいました。
9歳の時に田能村竹田に入門し、南画と唐詩選を学び、画の他にも儒学を角田九華、漢詩を広瀬旭荘に、そして表千家茶道、香道、東軍流の剣術などを学び身につけていきました。
また、田能村竹田に伴って大坂を訪れた際には篠崎小竹に儒学を学び、大塩平八郎、富岡鉄斎らと煎茶を通じて親交を深め、画家としてもその才能が認められています。
その幅広い才能から田能村の姓を継ぎ、田能村竹田がこの世を去ると、京阪を遊歴して過ごし、堺に落ち着くと詩社咬菜吟社を設立しており、そこには300人以上の門人が集まりました。
一方で、黄檗僧天沖真一に参禅し、印可と居士号を授かっている事から、大坂天王寺修復の折りには羅漢像を500幅描いて寄贈しています。
また、田能村竹田の意志を継ぎ、煎茶の普及に尽力しており、売茶翁百年忌に淀川下流の青湾にて「青湾茶会」という煎茶席を主催しています。
この時に100幅の肖像を描き、その場で頒布するというパフォーマンスを見せ、1200人以上が来場しました。
その後、青湾茶寮を営み、高野山でも茶会を行っています。
幕末は岡藩主中川久成に請われて藩士として仕えており、土佐藩主・山内容堂、伊勢津藩主・藤堂高猷からの恩恵も受けていたようです。
しかし、明治維新によって時代が変わり田能村直入も、藩士としてではなく画家としての頭角を表に出していくようになります。
63歳の時に京都博覧会開催に尽力し、自らも出品していますが、見事受賞し、画家としての力量が衰えていない事を証明しました。
そのため、天皇の行幸のとき御前にて揮毫しています。
更に京都府画学校の設立を幸野楳嶺らと京都府知事・槇村正直に建議し、開校の際は校長として就任しました。
しかし、各画派の衝突が絶えず、責任をとって辞職し、今度は私塾南宗画学校を設立して後進の指導にあたりました。
また、富岡鉄斎とともに日本南画協会も設立しており、私塾と協会を合併させました。
その後、田能村直入は博覧会、共進会の審査員をつとめながら多くの受賞を重ねるなど活躍を見せている事から明治南画壇の長老と呼ばれました。
画題は山水、人物、鳥獣、動物、草花と多岐にわたり、その中でも精密な描写と雄大な生命力を表現した南画山水に秀作が残り、画に漢詩による賛を付した作品が多く、現在でも高い評価を受けています。