高橋泥舟は徳川幕府の旗本で、槍術において「海内無双」「神業」などと称される程の腕前を持ちながら、日本画や書画にも通ずる人物としても知られています。
高橋泥舟は徳川幕府の旗本である山岡正業の次男として生まれており、幼い頃の名前である謙三郎を経て、精一郎となっています。
また精一という通称や忍歳という号もあり、泥舟という名は後年の号とされています。
槍術の自得院流として名家であった山岡家で、若くして天下第一と謳われていた兄である山岡静山と一緒に槍の技量向上に励みました。
兄が山岡家の家督を継ぎ、高橋泥舟は母方の家督を継いで高橋包承の養子となります。
しかし兄が27歳という若さで不慮の事故によりこの世を去ったため、門下生であった小野鉄太郎(山岡鉄舟)を婿養子に迎え、山岡鉄舟が家督を継ぎ義理の弟となっています。
その後、幕府により将軍が上洛するための警護を担う浪士隊の取締役のメンバーに任命され、将軍に随行して山岡鉄舟とともに上洛します。
その後も槍術師範役や幕府遊撃隊の頭取に任命されるなど活躍を見せ、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後も、徳川慶喜の身辺警護にあたり最も頼りにされていたといわれています。
明治維新後の高橋泥舟は徳川家の静岡移転に従って移住していますが、廃藩置県後は江戸に戻り隠居しています。
高橋泥舟は主への強い忠誠を見せた事でも知られており、勝海舟は当初、江戸城無血開城の交渉役を高橋泥舟に頼むつもりだったというエピソードが残されています。