高野長英は江戸時代後期に医者・蘭学者として活動していた人物です。
著書や日本画なども制作する才能を見せていましたが、幕府の弾圧を受けて非業の最期を迎えた人物としても知られています。
高野長英は仙台藩一門で水沢伊達氏の家臣である後藤実慶の三男として生まれましたが、9歳の頃に父親が亡くなり、母の兄で藩医の高野玄斎の養子となりました。
養父の高野玄斎が杉田玄白に蘭法医術を学んでいた事や、多感な少年時代の頃に多くの蘭書に囲まれて育ったため、蘭学・蘭法医学などに興味を持つのはごく自然な事でした。
高野長英は17歳の頃に高野家の反対を押し切って兄と従兄弟の江戸留学に加わり、同郷で養父の知人であり日本橋で薬種問屋を営んでいた神崎屋源造の神崎屋で寝泊まりをしていました。
夜はマッサージで日銭を稼ぎ、昼は杉田玄白が開設した医学・蘭学塾である天真楼(てんしんろう)に通うという苦しい生活を送りながらも奮闘していきます。
高野長英は江戸に出ておよそ2年後に吉田長淑(よしだちょうしゅく)に師事します。
この吉田長淑という人物は、内科専門の蘭方医で加賀藩の医者でもあり解体新書の翻訳者の1人としても知られており、後に長叔の「長」の一字を高野長英に与えています。
兄が病に倒れるなど、様々な困難が立ちはだかる高野長英ですが、長崎でドイツ人医師のシーボルトが開設していた診療所兼私塾の鳴滝塾(なるたきじゅく)への入塾がこれまでの生活を好転させるきっかけとなります。
後に秘めていた才能が開花すると塾頭になった事の他にも医学のみではなく、化学や天文学の知識も深めています。
シーボルトが国外追放となった事件により高野長英は長崎を離れ、江戸で町医者として活動するようになります。
この頃は日本初となる体系的生理学書の『医原樞要(いげんすうよう)』や飢饉対策を記した『二物考』など多くの著書を残すなど精力的に活動しています。
しかし高野長英著作の外国勢力への対応を記した『夢物語』の内容が幕政批判であるという罪を着せられ、蘭学者の弾圧事件である蛮社の獄により、投獄・逃亡の末、自害して人生の幕を下ろしました。