日本の外交官、政治家。内閣総理大臣を5期務めた。
1878年、自由民権運動家である竹内強綱の5男として生まれる。1881年に横浜の貿易商の吉田健三の養子となる。東京帝国大学政治科を卒業後、外交官となる。戦前はイタリア大使、イギリス大使などを歴任する。1940年に第二次近衛内閣が発足すると、独伊同盟の反対を進言するも、退けられる。45年2月、近衛は敗戦が必須との上奏を行った時、これにかかわったとして憲兵に逮捕されている。
終戦直後、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の外相に就任した。翌46年には自由党の党首に迎えられ、第一次吉田茂内閣を組閣した。以来、5期にわたって、通算6年以上にわたって首相を務め、戦後の復興に尽力した。GHQの指示のもとに戦後処理を行ない、51年にはサンフランシスコ講和条約とともに日米安保条約に調印した。
講和条約締結後、政界再編の動きがあわただしくなり、第四次吉田内閣の時に自らの失言によるいわゆる「バカヤロー解散」を招き、総選挙後かろうじて第五次内閣を組閣したものの、54年末に総辞職に追い込まれ、長期政権に幕を閉じた。
吉田茂は講和条約によって日本を自由主義圏に加え、国家主権を法的な手続きで取り戻し、戦後の基礎的な再建を図った功労者として位置づけられている。
1878年 東京都に土佐自由党の志士・竹内綱の五男として生まれる。生後間もなく吉田家の養子となる。
1906年 東京帝国大学政治科を卒業後、外交官試験に合格。
1930年 イタリア大使に就任。その後、イギリス大使も務める。
1945年 東久邇宮内閣の外相に就任。
1946年 自由党党首に就任。第一次吉田内閣を組閣。以来、5期にわたって首相を務めた。
1951年 サンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約を締結。
1953年 内閣の不信任案をうけて衆議院を解散(いわゆるバカヤロ‐解散)。総選挙後、第五次吉田内閣が成立。
1954年 12月の第20回国会冒頭、内閣不信任議決が成立し、総辞職し、長期政権に幕を閉じた。
1967年 逝去。享年89歳。戦後初の国葬が執り行われた。