福岡県穂波村で炭鉱経営者の息子として1920年に生まれた野見山暁治は、中学卒業後肺浸潤を患ったものの、画家を目指し東京美術学校へ入学し洋画科で勉強に励みます。
東京美術学校卒業後はすぐに戦争に駆り出されましたが、派遣先の満州でも肺浸潤が再発したため、現地で入院し、帰国後も入院生活を余儀なくされました。
退院後には作品制作を開始し、26歳の頃第2回西部美術展覧会に作品を出品し福岡県知事賞を受賞します。
その後32歳でもっと絵画を学ぶべく滞仏し、4年後にはサロン・ドートンヌ展覧会で会員となるなど自身の技術力を上げていきました。
野見山暁治の妻も一緒にフランスで暮らしていましたが、フランスに渡ってからわずか1年でガンを発症し闘病もむなしく早くに亡くなってしまいます。
妻に先立たれた事で野見山暁治は悲しみに打ちひしがれますが、作品を描く事に没頭する事で妻の死を乗り越えました。
その後、彫刻家である高田博厚からパリ近郊にあるライ・レ・ローズのアトリエを譲り受けた野見山暁治は、数多くの作品を制作し、1958年第2回安井賞を受賞します。
44歳で日本に帰国後、これまでの功績が称えられ東京芸術大学の助教授に選ばれました。
52歳では東京芸術大学の教授となり、後世の育成に励みながら作品制作を進め、61歳で教職員の地位から退き、その後は画家として作品制作の日々を送ります。
その後も作品の制作を続け、1992年に第42回芸術選奨文部で大臣賞を受賞、1994年には福岡県文化賞を受賞するなど功績を残しました。
そして、2014年に文化勲章を受章した野見山暁治は、100歳を過ぎた現在でも作品制作を続けているのです。
1920年 福岡県穂波村で炭鉱経営者の息子として生まれます
1938年 嘉穂中学校卒業後に肺浸潤を患います
1943年 東京美術学校洋画科卒業後すぐに戦争で召集され満州に派遣されます。
満州で肺浸潤が再発し現地で入院、その後帰国し入院しました。
1946年 第2回西部美術展覧会で福岡県知事賞を受賞します
1948年 妹の同級生だった内藤陽子と結婚します
1952年 滞仏します
1956年 サロン・ドートンヌ展覧会で会員となります。
妻の陽子が29歳で他界されます
1957年 彫刻家の高田博厚からライ・レ・ローズのアトリエを譲り受けます
1958年 第2回安井賞を受賞します
1964年 日本へ帰国します
1968年 東京芸術大学の助教授に選ばれます
1972年 東京芸術大学の教授に就任されます
1978年 『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞します
1981年 東京芸術大学の教員を辞職します
1992年 第42回芸術選奨文部で大臣賞を受賞します
1994年 福岡県文化賞を受賞します
1996年 毎日芸術賞を受賞します
2000年 文化功労者に選ばれます
2014年 文化勲章を受章します
2017年 練馬区名誉区民に選定されます
2022年 102歳になった今でも活動を続けています