【福沢 一郎】文化勲章受章者の買取作家・取扱い一覧

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福沢 一郎

福沢 一郎
福沢 一郎(1898年 (明治31年))

福沢一郎 文化勲章受章者

昭和初期の日本にシュルレアリスムを紹介し、前衛絵画運動の主導者として知られる福沢一郎は、激動の時代に独特の表現力で社会風刺画を描いています。

時にはユーモアに、時には生々しく、日本の洋画界で異彩を放ちました。


 福沢一郎

福沢一郎は1898年に群馬県北甘楽郡富岡町で生まれ、祖父から続く製糸業と富岡銀行を引き継いだ父親は富岡町長を務めたこともあり、大変な資産家であったようです。

東京帝国大学文学部に入学した福沢一郎は、ほとんど大学には行かず朝倉文夫に入門し彫刻家を目指しました。

24歳で東京に自宅とアトリエを新築し、帝展に入選するなど彫刻で才能を見せ、翌年の関東大震災を機に渡仏を決意します。


1924年にフランスへ渡り現地の空気に触れ、次第に絵画へ興味が移りシュルレアリスムに惹かれていくようになりました。

滞仏中の1929年には中山巍の推薦で二科展(東京府美術館)に作品10点が特陳され、奇抜なシュルレアリスムは当時の芸術界に衝撃を与え、翌年には第1回独立美術協会展に作品37点が特陳され大反響を得ます。


1931年に帰国し、シュルレアリスムの絵画制作と執筆などの活動によって前衛派の第一人者となり、福沢絵画研究所を開設するなど後続の指導にも力を入れました。

時代は日本が戦争色を強めて行く中、シュルレアリスム創始者がフランス共産党に一時期入党していたという理由だけで、福沢一郎は共産主義者と見なされ1941年 治安維持法違反の嫌疑で逮捕そして半年間の拘置を受け、以後は終戦まで前衛を封印し戦争協力画などに従事することを余儀なくされます。

1945年に軽井沢に疎開していた福沢一郎は、終戦間もない11月に銀座日動画廊で個展を開き、翌年からは戦後の混沌を表現した裸体群像の大作シリーズを発表、その中の『敗戦群像』は自身の代表作となりました。


その後は1953年の中南米旅行、1965年のアメリカ旅行で作風が変化しますが、再び社会風刺の群像に回帰し、社会に警鐘を鳴らす多くの作品が残されています。

1973年のオイルショックを風刺した『トイレット・ペーパー地獄』、バブル景気の時期に描かれた晩年作『悪のボルテージが上昇するか21世紀』など、現代から見ても非常に興味深い作品を残した偉大な画家です。


 シュルレアリスム

シュルレアリスムはフランス語でSurréalismeであり、Sur(スーパー)-réal(現実)-isme(主義)と直訳できます。

意味としては超現実主義、例えば脳内の空想、夢、欲求などの無意識の世界の追求です。


日本人がよく使用する「シュール」(Sur)という言葉はこのシュルレアリスムから生まれた日本語で、フランスや海外では通じません。

「シュール」の意味は、例えばよく使用される「シュールな笑い」は独特の世界観からくる笑いの他、なんとなく気まずい笑いや皮肉な笑いにも使われるので、シュルレアリスムとはニュアンスが異なっています。

日本ではこの「シュール」の意味に引っ張られてシュルレアリスムも同じ意味だと誤認識されています。


シュルレアリスムは、現実世界から距離を置いて純粋な精神の表現を目指した芸術活動です。

有り得ない物や世界を組み合わせ(コラージュ)して、自分の認識していない偶然の世界が生まれ、そこから意識ではコントロールできない表現を追求します。


始まりは福沢一郎が渡仏した1924年、作家アンドレ・ブルトンによる『シュルレアリスム宣言』が発表され、共感した詩人たちを中心とする文学活動です。

すぐにマックス・エルンストなどの画家や写真家たちも合流し、歴史的な芸術運動となりました。


福沢一郎は滞仏中にマックス・エルンストのシュルレアリスム作品に感銘を受け、影響されコラージュを用いてシュルレアリスム作品を制作するようになり、注目を浴びるようになります。

1931年の帰国後はシュルレアリスムを用いた風刺画を描くようになり、日本の芸術界に大きな影響を与えました。

福沢 一郎年表

1898年 群馬県北甘楽郡富岡町(現: 富岡市)に生まれる。父・仁太郎は後の町長
1918年 東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に入学、朝倉文夫の彫塑塾に通う
1922年 第4回帝展 彫刻「酔漢」 初入選
1923年 関東大震災
1924年 彫刻の勉強のため渡仏
1927年 彫刻から絵画に転向
1927年 サロン・ドートンヌ 『風景』 入選
1928年 サロン・ドートンヌ 『人物像』 入選
1929年 第16回二科展(東京府美術館)に、『シーン』『横たわる女』など滞欧作10点が特別陳列
1930年 独立美術協会の結成に参加
1930年 第1回独立美術協会展に『科学美を盲目にする』『よき料理人』など作品37点が特別陳列
1931年 帰国
1936年 福沢絵画研究所 開設
1939年 独立美術協会 脱会、美術文化協会 結成
1941年 治安維持法違反の嫌疑により逮捕拘置、以後終戦まで戦争協力画制作に従事
1945年 東京大空襲の後、軽井沢に疎開
1949年 美術文化協会 脱退
1952年 文化自由委員会の日本代表として渡仏
1953年 フランスからブラジル、メキシコ、インド、オーストラリア、ニューギニアなどを旅行
1954年 帰国、美術文化協会に再入会
1957年 第4回日本国際美術展 日本部最高賞
1957年 美術文化協会 再脱退
1965年 渡米し留学中の長男夫妻を訪ねた後、ニューヨークで制作、スペイン・フランスを訪問後帰国
1976年 福沢一郎展 (群馬県立近代美術館) 開催
1978年 文化功労者 選定
1988年 福沢一郎展 (群馬県立近代美術館)(世田谷美術館) 開催
1991年 文化勲章 受章
1992年 文化勲章受章記念 福沢一郎展 (群馬県立近代美術館) 開催
1992年 死去、享年94
2019年 福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ (東京国立近代美術館) 開催

福沢 一郎代表作

●溺死  (1930年)
 富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館蔵

●他人の恋  (1930年)
 群馬県立近代美術館蔵

●科学美を盲目にする  (1930年)
 群馬県立近代美術館蔵

●よき料理人  (1930年)
 神奈川県立近代美術館蔵

●魚雷攻撃(マレー沖海戦) (1942年)
 福富太郎コレクション

●敗戦群像  (1948年)
 群馬県立近代美術館蔵

●オームのいる群像  (1956年)
 富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館蔵

●埋葬  (1957年)
 東京国立近代美術館蔵 第4回日本国際美術展 日本部最高賞

●SLUM LORDS RICH ON OUR MISERY  (1965年)
 群馬県立近代美術館蔵

●悪のボルテージが上昇するか21世紀  (1986年)
 富岡市立美術博物館/福沢一郎記念美術館

●ノアの箱舟の出来事  (1991年)
 富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館蔵

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