千葉県出身の明治~昭和時代に活躍した鋳金家で、学問としての金工史を確立した事で金工の研究者としても優れていた人物で、日本における美術の工芸家として初めての文化勲章を受章している事でも知られています。
金工以外にもアララギ派の歌人としても活躍しており、正岡子規の門下でもありました。
5歳で佐倉にある麻賀多神社の宮司・郡司秀綱の養子となった香取秀真は、遺跡や古い寺院が周りに多く、幼い頃から古代への関心を持っていました。
昔から作られていた仏像などを自分の手で作ってみたいと思うようになると、養父であった郡司秀綱は代々受け継がれていた土地を売って、上京する資金に充ててくれました。
東京に出て東京美術学校を首席で合格し、鋳金科へ進んだ香取秀真は岡崎雪声、大島如雲に師事し、卒業後からは日展で活躍するようになります。
日展での数々の受賞やパリ博覧会で銀牌を受賞するなど国内外でその名声を高めていきますが、作品は思ったように売れず、厳しい生活が続いていました。
鋳金を行うためには模型や鋳型を作ったり、金属を溶かしたりする作業が必要となってくるため、弟子の存在は欠かせず、生活が苦しくても妻の嫁入り道具を売って弟子たちを養っていました。
そのため、妻には逃げられてしまい、経済的にも精神的にも厳しい状況となってしまいました。
その後は養母の母である金子うしの協力もあり、再起の努力を続け、東京美術大学教授として後進の指導にあたり、精力的に制作活動を続けた結果、近代鋳金界の第一人者としての地位を築き、再婚して幸せな家庭も築く事ができました。