石川県出身の昭和~平成時代に活躍した日本の鋳金家、工芸家です。
青銅や白銅によるレリーフなど建築空間を飾る手法を開発するなど、金工の近代化に尽くした事で知られています。
「金属造型」という新分野を開拓し、「建築と接点をもった造型」「公共のための造型」を理念として活動を続け、いつでも誰でも見ることのできるモニュメントを全国各地で手掛けています。
幼い頃から絵を描く事が好きだった蓮田修吾郎は、石川県立工業学校図案絵画科を経て、東京美術学校工芸科鋳金部に入学しました。
在学中は仲間とともに工芸新人社を設立して活躍し、卒業後は更に彫金の技術を磨くため、高村豊周に師事しました。
高村豊周は工芸団体「无型(むけい)」を組織して新工芸運動に尽力した人物で、伝統的な技法を駆使した簡潔・清新な造形で鋳金界に新しい作風を築き上げた事で知られています。
そんな師の影響を受けた蓮田修吾郎ですが戦争によって出兵となった事で、作家として目立った活動を行う事はできませんでしたが、その技量を買われ満州の中央銀行造幣廠彫刻課に勤務していました。
戦後になるとようやく作家として活動をする事ができるようになり、日展を中心に活躍します。
一方で器の本来の在り方である使う事を無視した純粋美の探求と創造を主張する美術団体・日本現代工芸美術協会をはじめ創作工芸協会や工芸・円心などの新しい工芸団体の設立に関わりました。
また、戦後の作品は『方壺』に代表される立体造型の追求と浮彫による壁面装飾的な心象風景シリーズといった作風も見られました。
さらに彫刻的、絵画的な要素を消化した金属造型の在り方が模索、構想され、やがて工芸と建築、公共空間との接点が加味された金属による環境造型の制作活動も行っていました。
こうして金属造型作家展を軸とした日本とドイツの交流の実践と拡大にも力を注ぎ、その功績を称えてドイツ連邦共和国功労勲章1等功労十字章を受章されるなど、世界的にもその名が知られる存在として活躍を見せました。