<span style="font-family:;" 0pt;"="" minor-latin;="" century;="" minor-fareast;="" 明朝";="" "MS="" 10.5pt;="" 明朝","serif";="" MS="">楠部彌弌は京都市生まれの陶芸家で、本名を弥一というため、楠部弥一や楠部弥弌といった表記をされる場合もございます。
父親は楠部貿易陶器工場を経営しており、陶磁器の輸出会社の子として生まれた楠部彌弌は幼少の頃より陶芸に親しんでいました。
彼の先祖は伊勢大神宮に収める神具や、祭器の専門職で陶物(すえもの/陶器)を作っていたそうです。明治維新後に京都の粟田焼が欧米に輸出されるようになったために、貿易商を営み始めたと言われています。
元々楠部彌弌は美術学校へ通い、絵画の勉強をしたいと考えていたそうですが、両親の意向により、京都市立陶磁器試験所の伝習生となりました。
京都市立陶磁器試験所の卒業後は京都粟田口の同年代作家と共に「赤土(せきど)」を結成しています。
因襲にとらわれない新たな作陶を目指して結成された「赤土」は「自然の美の奥深さを各自の愛を持って探求し、永遠に亡びざる美を、陶器なる芸術によって表現せんとする」という独自の発想により、閉鎖的だった陶芸界へ新風を巻き起こしました。
楠部彌弌は芸術としての陶芸を追求する姿勢を明らかにすると共に、中国や朝鮮、日本の伝統的な焼き物を深く追求していきます。
その後、パリ万国博覧会は「百佛飾壷」という作品で受賞し、1926年の日本美術工芸展での出品作「黒絵偏壷」が宮内庁買い上げとなるなど、数々の展示会で入賞を重ねました。
作品では独自の境地開拓に努め、京焼の伝統を踏まえて制作された楠部彌弌の色絵は優美と称されています。
作風は多技多彩で知られていますが、中でも代表的な陶芸技法に「彩埏(さいえん)」と名付けられた釉下彩磁があります。釉下彩(ゆうかさい)というのは釉薬の下の胎土に顔料で直接文様を描き、その上から透明の釉薬を掛けて焼き上げる技法で、染付や釉裏紅、辰砂などがあります。
楠部彌弌の生み出した彩埏では、釉に固有の色を出させるための呈色剤を混ぜた磁器土を、水を加えて軟らかくし、何度も薄く塗り重ねて、浮き彫り風にして文様を出します。
彩埏作品では草花を主なモチーフとして、文様を淡く浮き立たせた優美でモダンな印象の品が多く、花瓶や飾り皿、香炉などを制作しました。
楠部彌弌の作品では彩埏技法を用いたものがよく知られていますが、この他にも色絵や金彩、染付の作品も数多く残されており、それぞれで高い評価を受けています。
<span style="font-family:;" 0pt;"="" minor-latin;="" century;="" minor-fareast;="" 明朝";="" "MS="" 10.5pt;="" 明朝","serif";="" MS="">
1897年 京都市東山区に生まれる
1915年 京都市立陶磁器試験場付属伝習所修了
1918年 粟田山にアトリエを借りて作陶開始
1920年 同志と作陶家集団「赤土社」を結成
1924年 パリ万国博覧会に「百佛飾壷」を出品し受賞
1927年 帝展初入選「葡萄文花瓶」
1933年 帝展で特選。燿々社結成
1936年 パリ万博に出品受賞。彩延技法を創作する
1938年 岡崎・円勝寺に住居・工房を新築
1951年 日展文部大臣賞受賞
1953年 日本芸術院賞受賞。博埴会と青陶会を結成
1962年 日本芸術院会員となる。日展理事に就任
1965年 山科・清水焼団地町に工房を新築する
1969年 京都市文化功労者となる。日展常任理事に就任
1972年 毎日芸術賞受賞。文化功労者となる
1975年 京都市名誉市民となる
1977年 パリ装飾美術館にて「日本の美 彩延の至芸楠部弥弌作陶展」開催
1978年 皇太子殿下・妃殿下ご来窯。文化勲章授章
1982年 日本新工芸家連盟会長に就任
1984年 逝去(87歳)
『百仏飾壺』
『青釉鳥文花瓶』
『白磁彩埏飛翔花瓶』
『彩埏春日香炉』
『彩埏慶春香爐』
『彩埏慶夏花瓶』
『彩埏花宴花瓶』