大阪府出身の大正~昭和時代に活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家です。
「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さ」に対して、日本人として初めてとなるノーベル文学賞を受賞しています。
西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せていた事から「奇術師」の異名を持っていました。
開業医の家に生まれた川端康成は幼くして両親を亡くし、祖父に育てられました。
学校での成績は良く絵が得意であったため、文人画をたしなんでおり、祖父の勧めで画家を志した時期もありました。
しかし、文学の世界にのめり込んでいくと学業がおろそかになり成績が下がってしまいます。
そんな中、祖父も亡くなり、中学校の寄宿舎で生活する事になった川端康成は、2級下に『中学世界』や『少年世界』などの雑誌の有名投書家として学生たちの間でスターのような存在であった大宅壮一や、地元の週刊新聞社『京阪新報』に作品が載った清水正光に触発され、自身の作品も活字にしたいという欲望が芽生え、『文章世界』などに短歌を投稿するようになりました。
しかし、落選ばかりで何も反応がなく失意や絶望を感じますが、意を決し『京阪新報』を訪ね、小林という若い文学青年記者と会い、小作品『H中尉に』や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになりました。
この頃、家族の愛情をほとんど知らずに育った川端康成は、同室の下級生に同性愛的な恋慕を抱き、後に「初恋だった」と語り、自身の作品制作に影響を与えています。
大学時代に菊池寛に認められ、作家として活動を開始すると、自身の体験をもとにした「伊豆の踊子」をはじめ次々と作品を発表していき、有名な作家となりました。
しかし、逗子のアトリエにて謎の死を遂げており、一般的には「自分で命を絶った」とされていますが、「事故死」だったという見解もあります。
また、川端康成は古美術蒐集家としても知られており、蒐集は古美術だけでなく、古賀春江、モイズ・キスリング(モイーズ・キスリング)、石本正、梅原龍三郎、熊谷守一、当時無名の新人画家だった草間彌生など近代絵画もコレクションしていました。