島根県出身の昭和~平成時代に活躍する日本の彫刻家です。
東京スカイツリーのデザイン・監修をつとめた事で広く知られており、「反り」と「起り」をいかした彫刻を得意としています。
木を生かす事の発見から「そりのあるかたち」シリーズを展開し、日本神話から題材をとった「OROCHI」シリーズも高く評価されています。
幼い頃から絵を描く事が好きで、画家を志すようになった澄川喜一は戦時下であった少年時代、周りが軍人になる事が当たり前だったのに対して、画家になる事を貫き通しました。
そのため、召集を免れましたが、従兄弟たちは戦争で命を落としており、その悲しみを打ち消すためにスケッチに没頭する日々を送ります。
そんな中、故郷の橋・錦帯橋を写生した際、その構造の美しさに魅了され、橋の成り立ちについて考えるようになると造形に興味を持つようになりました。
法隆寺や東大寺といった日本の古い建築についても調べるようになり、日本独自の木造遺構は汲めども尽きない知恵に溢れ、壮大なスケールの計画に驚き、ついに彫刻家を志すようになります。
早速、両親に「彫刻家になりたい」と告げると父親からは猛反対されてしまいます。
澄川喜一は仕方なく地元の製紙会社に勤めるようになりますが、仕事に身が入らず、結局半年で仕事を辞めてしまいました。
彫刻家になる気持ちを抑える事ができなくなった澄川喜一は、家出覚悟で父親の説得に励みます。
こうして父親にその熱意が伝わり、「失敗したら地元で働く」という条件付きでたった一度だけのチャンスを手にしました。
幼い頃からスケッチに明け暮れ、デッサン力が身についていた澄川喜一は、東京藝術大学の受験に合格し、彫刻家としての一歩を踏み出す事になりました。
東京藝術大学では平櫛田中教室で塑造を学び、卒業制作はサロン・ド・プランタン賞を受賞しており、彫刻家として実力は卒業するまでにしっかりと身についていました。
その後、彫刻家として様々な美術展に出品を重ね、受賞を続けていく澄川喜一は、日本の木造建築の屋根や日本刀などに見られる伝統的な美意識から生まれた「そり」を主要テーマとして作品を次々に発表していき現代彫刻界の第一人者として活躍しています。