奈良県出身の昭和後期~平成時代に活躍する日本の洋画家です。
アフレスコ画という壁画技法の国内第一人者として知られており、アフレスコ画というのはフレスコ画の事で、絹谷幸二は必ず「ア」をつけてアフレスコ画と呼んでいます。
東京芸術劇場の天井壁画や東京メトロ副都心線の開通を記念して渋谷駅に設置された陶板画など国内だけではなく海外にもパブリックアートが多数設置されています。
2008年には若手芸術家を顕彰する「絹谷幸二賞」を創設し、長野オリンピックの公式ポスターを手掛けるなど、様々な社会貢献をしています。
ちなみに長野オリンピックの公式ポスターを描いた際、競技別のポスターであったため7種類を手掛けました。
しかし、競技団体から「実際のウエアとは違う」と批判されたそうですが、画家としての自負があり、相手に注文通りに描いていたらそれは芸術ではなくなってしまうと一切相手にしなかったそうです。
幼い頃から西岡義一に油絵の指導を受けていた絹谷幸二は画家を志して上京し、東京藝術大学で小磯良平の教室で油彩画を学びました。
大学院ではできたばかりの壁画科へ進み、西洋の壁画を熟知する島村三七雄に学びました。
しかし、日本の先生に学んでも本物はできないと考えるようになります。
そんなある日、アフレスコ画の集中講義のためにイタリアから来日したブルーノ・サエッティに出会います。
ブルーノ・サエッティはヴェネツィアのアカデミア美術学校の教授で、アフレスコ画の第一人者として知られていました。
絹谷幸二はブルーノ・サエッティに奈良、京都を案内する縁もあり、ブルーノ・サエッティが帰国する頃にはとても仲良くなっていました。
こうしてブルーノ・サエッティから「自分の所で学ばないか」と誘いを受けます。
この時、絹谷幸二は日本画壇での活躍も見られており、このまま日本に残れば画家として安定した生活が得られたが、自分に正直に生きる事を選択し、イタリアへ渡りました。
イタリアでの制作は裕福なものではありませんでしたが、ヴェネツィアでアフレスコ古典画の技法の研究を行った事は絹谷幸二にとって大きく飛躍する糧となり、帰国後は史上最年少で安井賞を受賞する実力を身につけていました。
鮮烈で激しい色彩と独創性溢れるインスピレーションによって生み出される作品は、命ある喜びをテーマに様々な角度から表現しており、富士山シリーズや北京風景などを多く描き、近年では仏画などにも取り組み、現代アフレスコ画の日本における第一人者として活躍しています。