新潟県出身の大正~昭和時代に活躍した日本画家です。
日本画の伝統を踏まえつつ、洗練された写実と装飾の世界を展開し、新古典様式を樹立した事で知られています。
その中でも代表作「髪」は裸婦画でありながら、日本で初めて切手のデザインに起用されました。
小林古径は本名を茂といい、12歳のとき松本楓湖の門下であった青木香葩に日本画の手ほどきを受けました。
16歳の時に上京して梶田半古の門下し、日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会で入選を果たし、以後受賞を重ねていきました。
安田靫彦と知り合うと今村紫紅の「紅児会」に参加し、文展にも出品を重ね、日本美術院再興にも参加し、画家として名声を高めていきました。
前田青邨とともに日本美術院留学生に選ばれると渡欧し、顧愷之の『女子箴図』の模写に従事し、東洋絵画の命ともいえる線描の技術を高め、帰国後は美術院経営者として画壇の中心的存在として活躍を見せます。
帝国芸術院会員、帝室技芸員となり、東京美術大学では教授として後進の育成にあたりました。
そんな小林古径ですが、絵画における写生の重要性を認識しており、庭で植物や鳥を育て、写生を繰り返していたそうです。
また、東京都大田区南馬込に「私が好きになるような家を建ててください」と言っただけで、小林古径が一切注文を出さずに建築された小林古径邸は、完成してもそこに住む事はなく、側を通っては眺めて楽しんだというエピソードが残されています。
現在この家は新潟県上越市の高田公園内に移築・復原され、国の登録有形文化財に登録されています。
1883年 新潟県で生まれる
1894年 山田於莵三郎に日本画の手ほどきを受ける
1895年 「秋香」と号する
1899年 上京して梶田半古塾に入門し、「古径」の画号をもらう
00000年第7回日本絵画協会・第2回日本美術院連合絵画共進会に出品する
1900年 第8回共進会で三等褒状、第9回共進会で一等褒状となる
1901年 第10回共進会で二等褒状、第11回共進会で一等褒状となる
1902年 第12回共進会で一等褒状、第13回共進会で二等褒状となる
1906年 安田靫彦と知り合う
1907年 巽画会会員となる
00000年梶田半古に推されて塾頭となる
1910年 安田靫彦、今村紫紅に誘われて紅児会に入会する
1912年 三好マスと結婚する
00000年第17回紅児会展、第6回文展に出品する
1914年 日本美術院同人に推挙される
00000年第1回再興院展に出品する
1915年 本郷より大森新井宿に転居する
1918年 日本美術院評議員となる
1920年 大森馬込に画室を新築する
1921年 日本美術院留学生として前田青邨と共に渡欧する
1922年 大英博物館で顧愷之の『女子箴図』の模写に従事する
1931年 第18回再興院展に出品する
1934年 馬込の画室に隣接して住居を新築する
1935年 帝国美術院会員となる
1937年 文展の審査員となる
1940年 紀元2600年奉祝展委員となる
1941年 日満美術展のため満州へ渡る
1944年 東京美術学校教授・帝室技芸員となる
1945年 山梨県に疎開し、10月頃自宅へ戻る
1949年 東京藝術大学教授となる
1950年 文化勲章を受章する
1951年 文化功労者となる
00000年東京藝術大学教授を辞任する
1952年 第37回院展へ最後の出品をする
1955年 神奈川県湯河原の天野屋にて静養する
1957年 4月3日、逝去
00000年従三位勲二等旭日重光章が追贈された
『鶴と七面鳥』
『清姫』
『竹取物語』
『犬と遊ぶ』
『不動』
『菖蒲』