竹内栖鳳(たけうちせいほう)は戦前に活躍した近代日本画のパイオニアとして活躍しており、京都画壇の代表的な存在で「老匠無比の技巧派」「百世にも稀な名人」「東の大観、西の栖鳳」などと称される程、高い評価を得ています。
竹内栖鳳は本名を恒吉といい、京都で料理屋を営む家の長男として生まれました。
13歳の頃に日本画界の中でも大きな派閥である四条派の土田英林に師事した後、17歳の頃に同じ派閥で教育者としても一流で、飴と鞭の使い方が絶妙だと高い評価を得ている幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事しています。
その翌年には才能が開花し、楳嶺から「凄風」という雅号を授かり楳嶺四天王の筆頭として活躍を見せます。
23歳の頃に結婚し、京都府画学校(現・京都市立芸術大学)を修了すると、京都府画学校に勤めながら絵師として活動しており、京都の新進気鋭の若手画家としてその名を広めていきます。
この頃、丸山派や狩野派など様々な画法の良いところを組み合わせた様式をとっていた事から、顏や尻尾などの各部位がそれぞれ違う生物で構成された空想上の妖怪である鵺(ぬえ)を例えに鵺派と揶揄されていました。
竹内栖鳳自身は鵺派を入り口に成熟させた方が良いと語ったというエピソードもあります。
竹内栖鳳は36歳の頃に国と京都市による美術事情視察という命によりヨーロッパ各国を訪れる事になりました。
こうしてロマン主義のイギリス人画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーと、モダニズムの先駆者で詩情あふれる風景画で知られているジャン=バティスト・カミーユ・コローの作風に大きな影響を受けます。
そして帰国後に自身にとって大きな収穫を記念して雅号を「栖鳳」に改めました。
その後は日本画の命ともいえる筆線を否定することなく、西洋的様式を取り入れ独自のリアリズムを確立します。
京都市立絵画専門学校が設立されると教授として後進の指導にあたり、形態の観察と正確なスケッチの大切さを説いています。
また、画塾「竹杖会」を主宰して上村松園、土田麦僊、西山翠嶂をはじめ多くの優秀な門下を輩出し、日本画壇を賑わせました。
宮内省(現・宮内庁)による帝室技芸員に推薦されるなど京都画壇の筆頭として地位を確立した竹内栖鳳は、フランス、ドイツ、ハンガリーでも受賞を重ね、世界的な画家となっており、最後まで作画三昧の生活を送りました。