【奥村土牛】文化勲章受章者の買取作家・取扱い一覧

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奥村土牛

奥村土牛
奥村土牛(1889~1990)

奥村土牛は東京出身の画家で、明治から平成にかけて活躍しました。
本名は義三(よしぞう)と言い、「土牛」という号は寒山詩の一節「土牛石田を耕す」に由来し、父親の経営する出版社から『スケッチそのをりをり』というスケッチ集を出版した頃より名乗り始めました。

土牛は1905年梶田半古の門に入り、当時門弟であった小林古径に日本画を学びます。また、兄弟子小林古径の紹介により、徹底した写実的な細密描写で知られた速水御舟の元でも絵を学んでいます。
長い修行期間を経て、38歳で院展へ初入選を果たした土牛は遅咲きの画家のイメージがありますが、1927年再興第14回院展に『胡瓜畑』で入選後は院展を中心に活躍し、日本美術院同人にも推挙されました。

土牛の作品で特に有名なものには『鳴門』や『醍醐』があります。
『鳴門』は1959年の作品で近代日本画の中でも傑作の一つとして名高い作品です。
この絵の元となったのは土牛の妻の故郷である徳島に行った際に立ち寄った、阿波の鳴門だと言われています。船上から見た神秘的で雄大な渦潮を描きたいと思った土牛は一気に何十枚もの写生をし、作品の完成までには百数十枚にも及ぶスケッチを重ねました。

『醍醐』は1972年の作品で京都の醍醐寺の枝垂れ桜を描いています。制作のきっかけとなったのは制作の約10年前、小林古径の七回忌の頃でした。七回忌の法要が奈良の薬師寺で営まれ、その帰りに醍醐寺三宝院前の土塀の枝垂れ桜に美を感じたそうです。
数日通って土塀前の満開の桜を写生しましたがしばらくはこの桜を描くことが出来ず、10年近い歳月を経て再び醍醐寺を訪れ、『醍醐』という作品を制作しました。

作品では刷毛や胡粉などで100回、200回もの塗り重ねをし、淡く澄んだ色彩や繊細な自然描写、単純化し洗練された構図による画風を特徴としています。
また、自身の作品制作の傍ら、優れた教育者としても美術界に貢献し、帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の日本画科教授、東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師などを務めました。
当時の学生の話では土牛に絵を見てもらうと、土牛はじーっと見つめるだけで言葉を発しなかったそうです。ただ土牛がそのように黙って見ているそばで、自分の絵を見返すと自分の絵の欠点が分かってくるのだそうです。

土牛は幼少期、病弱で外で遊ぶよりも家で絵を描いてばかりいる子供でした。
そんな土牛ですが享年は101歳と、比較的長寿の方が多い日本画家の中でも際立って長生きをしました。
『鳴門』や『醍醐』など代表作の多くが60歳を超えてから描かれていることからも大器晩成の作家で、常に創作に意欲的であったことが分かります。
土牛は晩年になると「私はこれから死ぬまで初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい。難しいことではあるが、それが念願であり、生きがいだと思っている。芸術に完成はありえない。どこまで大きく未完成で終わるかである。」と口癖のように言っていたそうです。

奥村土牛年表

1889年 東京の京橋に生まれる。本名は義三。

1905年 梶田半古の門に入り、塾頭の小林古径に師事。

1907年 東京勧業博覧会に「敦盛」を出品し入選。

1911年 約5年間、逓信省貯金局統計課に勤務してポスターなどを描く。

1920年 あらためて小林古径の画室で指導を受ける。

1923年 中央美術社第5回展で「家」が中央美術賞受賞。

1927年 第14回院展に「胡瓜畑」を出品し初入選。

1929年 第16回院展に「蓮池」を出品、日本美術院院友に推挙される。

1932年 日本美術院同人に推挙される。

1935年 帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)日本画科教授に就任。

1936年 第1回帝展で「鴨」が推奨第1位。

1947年 帝国芸術院会員となる。

1959年 日本美術院理事となる。

1962年 文化勲章受章。文化功労者に顕彰される。

1978年 日本美術院理事長に就任。

1990年 死去。享年101歳。

奥村土牛代表作

『鳴門』

『醍醐』

『鹿』

『閑日』

『吉野』

『富士宮の富士』

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