杉山寧(すぎやまやすし)は東京都で文房具店を営んでいた杉山卯吉の長男として生まれ、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学しました。
卒業後は日本画家の松岡映丘の画塾、木之華社に入り、同じ画塾にいた山本丘人や高山辰雄たちと共に日本美術界に新風を呼び込もうと瑠爽画社(るそうがしゃ)を結成しています。
杉山寧は在学中に帝展への初入選を果たしており、初入選の翌年、第13回帝展では最年少で特賞を受賞しました。そんな杉山寧ですが、より絵画の技術を磨くため結城素明に師事し、1934年には第1回日独交換留学生に選出され、ベルリン大学でも画を学びました。
瑠爽画社の結成も同時期、1934年頃でしたが、松岡映丘の死去と、杉山寧の肺結核により僅か3年ほどで解散しています。
杉山寧は肺結核が発覚した後も日展などに出品を続け、1943年には朝鮮満州支那へ取材旅行にも向かいましたが、その後しばらくは病のために創作活動を休止しています。
彼が画壇に復帰したのは1951年、ギリシア神話をモチーフとした『エウロペ』を日展に出品した頃で、復帰後は作風を一変させています。
杉山寧の作品は鋭い観察眼に基づく優れた描写力、斬新な構図、重厚な質感が特徴的です。また実在する以上の生命感を表現し、風景画、人物画、花鳥画などモチーフを特定せず、多彩な絵を描きました。
療養前の代表的な作品には大海原を背景に舟に乗る海女さんの描かれた『海女』、椿の咲き誇る中で乙女が石に腰掛ける『椿と乙女』などがあります。また、復帰後の作品では紙に描かず、麻布に絵を描いたり、『生』や『救』、『洸』など漢字一文字をタイトルとした作品が目立ちます。
特によく知られている作品は麻布を用いて、背景に深い青色の川を、手前に水瓶を乗せた女性を描いた『水』や、エジプトのスフィンクスを描いた、神秘的で圧倒的な存在感を感じさせる『穹』ではないかと思います。
復帰後の杉山寧は抽象表現を用いた作品が多くなり、日本画に使用する岩絵具に細かな砂などを混ぜて、厚塗りのざらざらとした質感を追求するなど、従来の日本画では見られない作品を創りあげました。
エジプトをはじめ、ヨーロッパ各地をまわった杉山寧は中近東を好んで訪れ、ピラミッドやスフィンクス、民族衣装を纏った女性など、旅先で心動かされたものをモチーフに作品を発表しています。
戦後、日本画に新たな領域を切り開いた功績から、文化勲章など数々の栄誉を受け、1976年には西ドイツ政府から大功労十字勲章も受賞しました。
1909年 東京、浅草に生まれる。
1929年 東京美術学校日本画科入学。
1931年 帝国美術院第12回美術展覧会に「水辺」が入選。
1932年 第13回帝展に「磯」が特選。
1933年 東京美術学校日本画科卒業。
1957年 第12回日展出品作「孔雀」に対し、第13回日本芸術院賞受賞。
1974年 文化勲章を受章、あわせて文化功労者となる。
1987年 杉山寧展(東京国立近代美術館、富山県立近代美術館)開催。
1992年 「杉山寧の世界」展が東京近代美術倶楽部で開催。「淑」制作。
1993年 死去。享年84歳。
『野(の)』
『穹(きゅう』
『洸(こう)』
『エウロペ』