北海道出身の昭和~平成時代に活躍した女性の日本画家です。
型破りな構成と大胆な色使いが一部の人々から「ゲテモノ」と評価されていた画風が特徴で、小林古径に「今のあなたの絵はゲテモノに違いないが、ゲテモノと本物は紙一重の差だ... あなたの絵を絶対に変えてはいけない...」と励まされた事で、美しく描く事が全てではないと自身の信念に従った力強い表現で、日本画の概念を揺るがしました。
また、歌舞伎役者の四代目中村雀右衛門と交流があり、有名な助六の揚巻の打掛の墨絵も手掛けている事で知られています。
女子美術専門学校を卒業した片岡球子は、小学校の教諭をつとめるかたわらで制作活動を続けていました。
両親からは画家になる事を反対されながらも日本美術院で初入選を果たしますが、その後は落選が続きました。
その理由としては、「ゲテモノ」と評価されていた大胆な構図と色使いが当時の画壇から受け入れられなかった事でした。
再び、院展で入選を果たす事ができたのは初入選から約10年の月日が流れた第26回の院展で、以後連続で入選を果たすようになります。
こうして小学校教諭を退職し、女子美術大学日本画科専任講師として画業一本となり、愛知県立芸術大学が開校すると日本画科主任教授として活躍しました。
代表作には「面構」「富士山」などのシリーズが知られており、面構シリーズの中でも、「面構 徳川家康公」と題された作品は、京都の等持院に安置されている徳川家康の木像から着想を得て制作されたもので、同じく等持院に安置されている足利一族の木像に比べると徳川家康の木像はとても貧弱な印象を受けた片岡球子が、想像力をたくましくし、ハイライトと陰影による顔の隈取りを強調することで、徳川家康のふてぶてしさや意志の強さといった精神的なものを見事に体現化した作品として高く評価されています。