奥田元宋(おくだげんそう)は本名を厳三(げんぞう)といい、元宋と名乗る前は成珠という号を用いたこともあります。
小学生の頃、図画教師である山田幾郎の影響から絵を描き始めた元宋は18歳で上京し、縁戚にあたる日本画家の児玉希望の内弟子となります。
内弟子となってからしばらくすると、思うように絵を描けないスランプに陥り、映画の脚本家を目指すと言い、児玉門下を出たこともありました。しかし絵に対する未練を断ち切れなかった元宋は再び絵筆をとり、外弟子に降格されても児玉門下で研鑽に励みます。
元宋は人物画や花鳥画を中心に日本画を描き、1936年文展の鑑査展に『三人の女性』で初入選を果たし、1938年には『盲女と花』で特選も受賞しています。
文展初入選の頃は本名である厳三を画号にしていましたが、一時期は成珠を画号とし、その後自身が中国宋元時代の名画に関心を抱いていたこと、自身の本名にも通じることから、元宋という画号を名乗るようになりました。
『三人の女性』などのように当初は人物画を中心に制作していましたが、疎開で郷里に戻ったことをきっかけに草花や風景画を描き始め、1950年頃からは風景画を専門としていきます。
人物画や静物画などを描いていた戦前(疎開前)の作品のほとんどは戦災で消失してしまったようですが、自然の風景を心の目で捉えて描いた風景画の数々は高く評価され、独特の鮮烈な赤色は「元宋の赤」とも呼ばれています。
彼の作品で赤色の印象深い作品には『秋嶽紅樹(しゅうがくこうじゅ)』や『玄溟(げんめい)』が挙げられます。
『玄溟』は1974年、元宋が62歳の時に描いた作品で、「玄」は天、「溟」は大意の意味を持ちます。『秋嶽紅樹』は1975年山梨県昇仙峡の紅葉を画面いっぱいに描いた燃えるような荒々しい作品で、「元宋の赤」を切り拓いた作品としてよく知られています。
これらの作品は今までの画風とはまったく違い、これ以降自然の風景を赤で表現することに傾倒していったため、元宋は赤色を基調とした作品を数多く残すことになりました。
また、元宋は歌人としても活動しており、歌人の生方たつゑ(うぶかたたつえ)に師事し、1981年には宮中の歌会始の召人にも選ばれています。
召人というのは歌会始で題にちなんだ和歌を詠むように選ばれた人のことで、元宋は「彩れる秋移さむと 山峡に 木葉時雨の 音をききおり」と詠みました。
1912年 広島県双三郡八幡村に生まれる。
1931年 中学卒業を機に遠戚にあたる日本画家、児玉希望を頼って上京し内弟子となる。
1933年 一時シナリオライターを志して児玉家をでる。
1938年 第2回文展で「盲女と花」が特選受賞。
1947年 日本橋高島屋で初の個展。
1973年 日本芸術院会員に就任。
1981年 文化功労者となる。
1984年 文化勲章受章。
1994年 京都高島屋「奥田元宋遊心展」で、淡彩画に自作の詩を揮毫した作品などを発表。
1995年 東京都奥多摩町白丸に歌碑完成。
2003年 死去。享年90歳。
『松島暮色』
『湖畔春耀』
『遠山早雪』
『霧雨の湖』
『白嶺秋耀』