京都府出身の昭和~平成時代に活躍した日本画家です。
写実的な風景画の中に緻密に描いた花鳥画を融合させ、薄い色彩を何度も何度も塗り重ね独自の色彩感、立体感を表す技法を用いている事で知られています。
「自然とにらめっこをして、自然以上のものを描く」という言葉を信念に、画家としては遅咲きながらも多くの作品を発表してきました。
生まれる前に父親を亡くし、母親も出産直後に亡くなってしまい寂しい少年時代を過ごした佐藤太清は、その寂しさを紛らわすかのように絵の世界に没頭していくようになりました。
本格的に画家を志すようになると、商業学校を卒業後上京し、20歳で児玉希望の内弟子となって画技を磨いていきました。
戦争により召集を受けますが病気となり召集が解除となった後も病魔と闘い、画家としてスタートする事ができたのは30歳の時に新文展で初入選を果たしてからでした。
画家として遅いスタートを切った佐藤太清ですが、人一倍努力をし、次々に入選・受賞を重ね、日本芸術院賞を受け日本芸術院会員となりました。
もちろん、後進の指導にもあたっており、現代日本画壇の重鎮としての地位を築いていきました。
しかし、またも病魔が佐藤太清の体を襲い、「鳥の羽一本一筋、鳥の黒眼の位置、少しでも自分の思うように描けなくなったら、自分は絵を止める」と決めていた佐藤太清はこの入院で体力的にも限界を感じ、制作活動に終止符を打ちました。
その一方で、若い世代の美術奨励として「福知山市佐藤太清賞公募展」「佐藤太清記念中学生絵画展」の開催のために尽力しました。
佐藤太清の作風は、はじめは「児玉希望の画風を真似るな」と言われていたため、風景画の制作はほとんど行っていませんでした。
そのため、花鳥をモチーフに独自に狩野派、土佐派など古典的な描法を研究し、それを現代花鳥画という形で発表し、児玉希望が亡くなってから風景画を手掛けるようになりました。
写生、デッサンに重きをおいた作品は細部まで緻密に描かれ、亡くなった今でも根強い人気を誇っています。