中国明代中期に活躍した書画家で、徹底した努力を積み重ねることによって才能を得た晩成型の人物として知られており、若い頃の作品は下手だったと評価されています。
そのため、毎朝起床すると必ず習字をする習慣を亡くなるまで怠る事がなかったようです。
祝允明、王寵とともに呉中の三大家とされ、明代初期から停滞気味の書壇に新風を吹き込んだ功績は大きく、画においては呉派文人画の領袖である沈周のあとを受け継ぎ、沈周、唐寅、仇英とともに明代四大家と呼ばれています。
南宋末の忠臣である文天祥を祖に持つ名門の出身である文徴明は、父の文琳は進士に及第して温州府(現・浙江省永嘉県)の知事までつとめた人物で、恵まれた環境で古文や画を学ぶ事ができました。
発育が悪く言葉が遅れていた文徴明でしたが、父・文琳は発達異常ではなく習得するのが遅いだけという事を見抜き、古文は呉寛、画は沈周、書は李応禎に学ばせるなど教育に力を注ぎました。
しかし、文徴明は当時一流だった人物に教わったにもかかわらず科挙を受けますが、一向に受かる気配もなく25年かけても及第する事はありませんでした。
青年期になると同郷で年齢も近い唐寅や祝允明らと交友するようになり、天才型の彼らの中では文徴明の芸術は二番手となっていました。
徐々に詩書画で名声を得るようになると55歳の時に縁故により翰林院待詔に推薦され、「武宗実録」の編集に携わる事になります。
しかし、暗愚な皇帝と腐敗した政治、官界からの排斥などが重なり、嫌気がさして57歳の時に官職を辞めて帰郷しました。
戻ってからは玉磬山房を築き、王寵、銭穀、陸師道、陳道復、王穀祥、彭年、周天球らと盛んに交友し文芸三昧にふけ、長寿を全うする30年間を蘇州芸苑の重鎮として幸福な人生を送りました。
古書画に学び、古くは唐代の郭煕や李唐から元代の趙孟頫や元末四大家に師法して山水、花卉、蘭竹、人物など広い作域を見せた文徴明ですが、最晩年になっても画の完成度は衰えるどころかなお一層、謹細にして典雅なものとなり、その画を求めて門前に馬車が並ぶほどでした。
しかし、王侯貴族(宗藩)や宦官、それらにおもねって利益を貪る者や外国人には決して書画を売る事はなく、貧しい者が彼の贋作を作成して売ってもその者が救済されるならば構わないと容認していたそうです。