仇英を買取ります
仇英は中国・明朝時代の中期に太倉(現在の江蘇省蘇州)で活躍した画家です。
字(あざな)は実父または実夫といい、画家としての号は十洲と名乗っていました。
字とは昔の中国の成人男性が実名以外につけたあだなのようなもので、号は画家・文人・学者などが本名の他につける名の事です。
仇英は身分は低いものの天賦の才に恵まれ、幼い頃から蘇州の著名な画家・周臣に師事して伝統技法などを学び、文徴明や唐寅などの影響も受け、独自に臨摹などを行い、さらに技術を高め、その作品は蘇州の文人たちに賞賛されるまでとなりました。
人物・鳥獣・山水・楼観を得意としており、特に人物画においては濃い彩色、忠実な写実、美しい表現を狙った描写的様式に綿密さを加えた独特の画風を生み出し、美人風俗画にその特色がよく見られます。
そのため、多くの画家の風俗人物画は仇英風に変わったとされています。
また、当時収集家として知られていた周鳳来、陳官、項元汴などと交流があり、こうした収集家たちのコレクションに触れる機会があり、画家として大きく視野を広げる事ができました。
他にも春宮画を多く描き、明朝時代の後期には宮中内だけではなく、官僚や豪商などの富裕層を中心に人気が高まり、広く世に出回ったそうです。
こうして仇英は沈周、文徴明、唐寅と共に明四大家と称されるほどの画家となり、四大家のうち唯一の職業画家でしたが、文徴明らとの交流によって文人的教養も身につけていた事で知られています。